澤村伊智「恐怖小説 キリカ」
![20070108195529[1]](http://blog-imgs-97.fc2.com/a/b/c/abc01784/20170522191913c75.jpg)
澤村伊智
講談社
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以前、記事をアップしました「ずうのめ人形」の著者、澤村伊智の三作目のホラー小説になります。
今作は、「ずうのめ人形」とは、全く違った恐怖に挑んでいて、「ずうのめ人形」とは異なった面白さと、
「ずうのめ人形」にも共通する、この著者の資質的な面白さ(怖さ、と言ってもいいと思いますが)が混在した、
非常に面白い小説でした。本当にこの著者は、何を書いても大丈夫なんだと、意を新たにさせられました。
前作と共通する、著者ならではの面白さですが、まずはやはり何と言っても、展開の運び方の面白さだと思います。
しかもこの著者は、その筋運びの随所(特に物語の転換するところ)に、ある種の叙述的な仕掛けを用いてくるので、
この面白さを書くと、単純に未読の読者の方には、ネタバレになりますので、詳しく書けないのですが…。
ある種、映画的と言ってもいいくらいの構築ぶりですが、一方、叙述的な仕掛けは、小説だからこそできることでもあり…。
この辺りの匙加減が、ちょっと他の小説家にはない、著者独自の強みという気がします。
また、既存の他者の小説を大きく取り上げる、という手法は今回も健在で、それをより堂々と推し進めています。
これもネタバレに相当しますので、詳細は控えますが、「ずうのめ人形」で、個人的には感じた違和感どころか、
今作では、「え!ここまでやるの?」という感じで、これには素直に驚きました。
何事も突き抜けるくらいに、堂々と推し進めると、それは何かしらの効果があるものだと、改めて思わされました。
(ちょっと今回、ネタバレを回避するあまり、何言ってるのかさっぱり分からん、という感じで、大変申し訳ないですが…。)
で、今作で、著者が新たに挑んだことですが…。
これこそ詳細な説明をすると、完全なネタバレになってしまうのですが…。
これは述べても問題ないかなと思いますので、簡単に書きますと、今作で著者が挑んだのは、メタフィクションの手法です。
何しろ冒頭が、著者自身が、「ぼぎわん」(後に「ぼぎわんが、来る」に改題)で、
日本ホラー小説大賞の、大賞受賞の告知を受ける場面から始まりますから。
余談ですが、私は残念ながら、「ぼぎわんが、来る」を読む前に、今作を先に読んでしまいましたが、
少なくとも、この小説に関しましては、「ぼぎわんが、来る」は、先に読んでおいた方がいいかと思います。
「ぼぎわんが、来る」執筆の裏話がかなり出ますので、先に読んだ方がより面白いと思います。
話を戻しまして、メタフィクションですが、メタフィクションで思い出すのが、以前記事を書きました三津田信三ですが、
三津田信三のメタフィクションは、主に話の導入部と、その小説の話者(主に一人称の口語体)を設定する為に、
用いられることが多い印象ですが、
今作でのメタフィクションは、著者自身の身近な現実と、作中の不穏な創作の、虚実の皮膜が次第に曖昧になり、
現状認識に揺さぶりをかけるといった、従来型のメタフィクションで多く用いられる手法になっています。
このような入れ子構造は、複雑化すればするほど、その入れ子構造の構築自体に、
小説の力点が向かいがちな側面があるかと思われますが、この小説の素晴らしいところは、その入れ子構造が、
あくまで、この小説が目指す恐怖を、より鮮明化する為に用いられていて、主軸がブレていない点だと思います。
そういった手法を主軸にして、今作が目指した恐怖は、はっきり作中で提示されていますが、
それは書いたらあかん、と思いますので控えます。興味のある方は、是非お手にお取り下さい。
私は小説を読みながら、この著者は一体どうやって、このお話を創っていったのかなと、
真偽のほどはともかくとして(多分、偽の方が遥かに多いと思います)、自分なりに想像するのが好きです。
では、この小説はどうだったのかな、とも考えてみました。以下は、根拠不明の完全な憶測になります。
まず、手法が先か、主題(この場合、今作が目指した恐怖の形)が先か、ということがあると思いますが、
今作の場合、私は主題が先にあって、それをいかに伝えるかということで、メタフィクションがきたのでは、と思いました。
このような、ある主題(必ずしもテーマとは限りませんが)が軸にあって、それを狙い通りに伝える為に、
基調の手法や、お話の展開や、ディテールを決めていくというのは、実に王道的な、物語の創作作法だと思います。
作法は王道でも、展開の仕方や、ディテールの配置などが独特ですので、この著者の小説は面白い、
というのが、現時点での、私の勝手な憶測です。
「ずうのめ人形」では、伝播する恐怖を描き、今作では、また違った恐怖に挑んだのですが、
これは批判でも何でもありませんが、それを読んで私は、この著者は無数の引き出しがあるなあ、とは感じませんでした。
今作が目指した恐怖それ自体は、決して目新しいものではないと思いますし、他の小説家も散々やっています。
変な喩えかも知れませんが、今更スティーブン・キングに、「ネタが新しくない!」と、怒る人はまずいないと思います。
そうではなく、それをキングが書いた、ということの方が、大事なのだと思いますが、
私がこの著者は何を書いても面白い、と感じたのは、そんな感じがしたからだと思います。
主題が既存のものであっても、この著者なら、今まで読んだものとはまた違ったアングルで、それを見せてくれるのでは…。
そういう期待が、あるからだと思います。
同じ時代に、同じ国に生きているという、同時代性を感じる、素晴らしい小説家と出会えた、という気がします。
相沢沙呼「スキュラ&カリュブディス」
![20070108195529[1]](http://blog-imgs-97.fc2.com/a/b/c/abc01784/201705212251144a7.jpg)
相沢沙呼
新潮文庫nex
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うかうかしている間に、気が付くとついに新潮文庫もラノベに参入です。
この分野には興味はあったのですが、一体どこから入って良いのかさっぱり分からず、
「おお、ホラーだ、なんか耽美らしい…」ということで、実は著者のことも分からず(すみません)、読ませて戴きました。
女子高生たちの間で蔓延する謎のドラッグ、喰い千切られた女子たちの死体、都市伝説的な人狼の噂…。
こうして見ると確かにホラー小説ではありますが、そこはやはりラノベというべきなのでしょうか、
通常のホラー小説とは、かなりお話の力点が違っており、私如き新参者には、そこが目新しかったです。
よくあるホラー小説だと、終盤まで真相究明が続き、主役級の誰かが犠牲になるのを、みんなで食い止めろー!
と奔走する、みたいな雄々しい展開になると思うのですが、この小説の場合は、著者の資質もあると思いますが、
真相究明よりも(勿論、真相究明もありますが)、作中の少女たちの脆くて危うい精神性や、
儚い結び付きの方に、より大きな比重が置かれています。
それがまた、少女たちの幼さ故か、一途に耽美(性と死)に没頭する傾向があり、雄々しさの対極にあるような、
ある意味では、非常に純化された夢を扱った小説なのだと、私は思いました。
純化という言葉は、理念化と言い換えてもいいかも知れません。
多分に自己憐憫的で、願望充足的で、紆余曲折はありながらも、最後にはそれが叶い、満たされる、
という意味での、理念化です。そこには、現実につきまとう、余計な夾雑物の成分が殆どありません。
作中の少女たちは、そのような時間と空間の中を、全身で生きている、そういうことなのだと思います。
唐突に話は変わりますが、昔、映画館で、島崎藤村原作の「破戒」(市川雷蔵版のやつ)を見ました。
映画の中で、自らの出自を、ひた隠しに生きてきた主役の教師が、
生徒に向かって、泣いて赦しを乞いながら、自分の出自を語る、というシーンがありました。
その映画では、教師はまさに「泣き濡れる」といった感じで、むしろ「濡れる」の方に、比重がかかってるんじゃないか…?
この小説の、少女たちの儚い交換も、ほんとにこういう感じなのです。
人体損壊の猟奇的場面と、少女たちの耽美的な行為と、真相究明を随所に挟みながら、作中の少女たちは、
他人との違いに怯え、人を求めながら拒み、縋っては突き離し、といったことを、延々と繰り返します。
詰まるところ、この小説が理念としているのは、他者と異なったまま同化したいという、矛盾を抱えた承認欲求です。
この心的なプロセスに共鳴できない(肌に合わない)読者は、この小説を読んでも、
「意外とグロかった」「意外とエロかった」ということ以外に、何も得るところがないように、私には思われます。
ホラーの本旨は、勿論、読者に恐怖を与えることですが、その中にある様々な方向性を、私は許容したい考えです。
よく言われるようにホラーには、思春期の性の通過儀礼のシミュレーション、といった側面もあると思いますし、
今やいい歳こいてしまった私如きには、こういう時間が止まったような感じ、といいますか、
むしろ、このまま時間が止まっていてほしい、という儚い夢の時間の手触りが、何だか懐かしくもありました。
私は、このような自己否定に端を発した、自己憐憫という感情は、とても日本的な感情だと思います。
海外にも、ヤングアダルト向けのホラー小説は、かなりの数があると思われますが、
この小説のような、こうまで承認欲求の成就に特化した、ウェットな手触りの小説は、なかなかないように思われますし、
これも、今の日本の文化土壌が、独自に生み出した何かのように、私には思えました。
また、作中の少女がアニメばりに、みんな特徴的な美女ばかりで、そういう部分にも、独自の歪つさがあると思います。
澤村伊智「ずうのめ人形」
![20070108195529[1]](http://blog-imgs-97.fc2.com/a/b/c/abc01784/20170521105704838.jpg)
澤村伊智
角川書房
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デビュー作の「ぼぎわんが、来る」が大好評だった、日本ホラー小説界期待の新人、澤村伊智の第二長編です。
私は初めて読みました。これはまたすごい人が出たてきたなあ、というのが素直な感想で、
評判通り剛腕といいますか、非常に地力の強い小説家だと思いました。
この小説の地力の強さは、様々なものを含んでいるように思われました。
まず、作中に出てくる存在の問答無用さです。
遭遇したら必ず死ぬ、逃げようがない、というのはまだ既知の範囲かと思うのですが、すごいのはその規模です。
数量で換算される、事態の尋常でなさというのは確かにあるなあ、と読みながら、気付かされた感じがありました。
特に出だしが、ごく身近な心霊実話テイストから始まりますので、なおさら効果的だと思います。
次に、展開の自在さです。むしろ、地力の強さを感じさせるのは、こちらの方かも知れません。
この小説はホラー以前に、物語としての牽引力が相当に強いと感じました。
視点の頻繁なスイッチ、仕掛けられた幾つもの複線、一端読者をミスリードに導いておいて、すぱっと解決する鮮やかさ、
作中で事柄が示されるディテールがいちいち秀逸などなど、物語を転がす手腕が実に闊達です。
私は個人的には、どちからといえば、構築的ではない小説の方が好みですが、
この小説を読みながら、次々と作者の手玉に転がされるのが、実に心地良かったです。
そういう意味では、この小説家は、本来的な意味での、娯楽小説の王道を行くスタイルだと思います。
これだけ書ければ、今後この著者は何を書いても大丈夫かな、という気がしました。
この小説全体で言及されるのは、ある都市伝説についてです。
ある都市伝説の原因究明が物語の骨子で、そこで剛腕のリーダビリティが発揮されるのですが、
私が読んで面白かったのは、都市伝説自体の成立と解釈が、延々と登場人物の対話を通じて考察される点でした。
ここで著者は、非常に面白い考えを述べています。
それは、都市伝説とは、怖い話が持つ、柱の二つのうち、片方だけに特化したものである、という考えです。
柱の一つは、その話自体が持つ「怖さ」だそうです。
そして、都市伝説が特化したもう一つの柱が、その話自体が広がること、それ自体が「怖い」、という解釈です。
ここで著者はご丁寧に、登場人物の抱くイメージとして、真っ白な日本地図に、話が広がった場所を赤くして、
それが日本全土を覆う、という噂が伝達する形を、わざわざ可視化までしてくれます。
例えば、従来の心霊実話や昔の怪談話では、基本的に幽霊は恨みを残すから幽霊になるのであって、
逆に考えれば、恨みのない人間には、何の害もない、という考えになるのですが、
このような都市伝説的な広がりをする怪異には、恨みのある無しは、もう何の関係もありません。
どんな理由でも、一端聞いたらもうアウト!こういう無差別的に降ってくる恐怖です。
この小説の怪異の問答無用さは、この災いが及ぶ伝播の方法に、大きく拠るところがあるのですが、
実は、その問答無用の伝播の恐怖については、私たちはもっと以前に、別のまた大ヒットした小説や、
かつて世界を席巻した、一連の優れたJホラーなどで、既に手触りを知っているはずです。
この小説でも、かつて日本中を席巻した、ある小説が大きなキーワードになっていますが、それは読んでのお愉しみで…。
思えば、このような、恐怖に関する様々なマテリアルな工夫や、恐怖の仕組みの徹底的な見直しは、
二十世紀末に、むしろ小説よりも映画の方で、活発に行われていた時期がありました。
この小説は、そういった一連のムーブだったJホラー以降の、二十一世紀の紛れもない、
国産ホラーの新たな産声だと、私は読みながら感じました。
私も世紀末にJホラーを掘っていたこともあって、一端は断絶してしまったかに見えたその潮流が、
実は内部では、地底の溶岩のようにまだ滞留していて、時代は確かにここに再び繋がった、という感動がありました。
少なくとも、これは日本が独自に発展させ、日本でしか生み出せなかった、恐怖の系譜上にある小説だと思います。
一方、些事であるかも知れませんが、難癖を付けられかねない部分が、この小説にはあって、
それが、先に述べた、キーワードにもなったある小説が、あまりにも言及され過ぎている点だと思います。
言及どころか、作中の人物もそれを読み、それが物語にも反映されるほど、扱いが大きくなっています。
作中の中で、他者の作品について扱うのは、実に按配が難しいと私は思います。
些事と言えば全くその通りですが、作中の世界観を保障する大事な部分でもあると、私は考えますので、
私は読みながら、正直唯一引っ掛かった部分でもありました。
また、参考文献に、他者の小説がズラズラ並んでいるのは、初めて見ましたし、それが私には軽い驚きでもありました。
まあ、それはともかく…。
確かな物語作法を持ち、日本のホラー小説の延長線上の最先端に位置する自覚も、十分にあると思われます、
この小説家は、全く評判通りの小説家でした。私は早晩、この著者の他の小説を読みたいと思います。
三津田信三「赫眼」
![20070108195529[1]](http://blog-imgs-97.fc2.com/a/b/c/abc01784/201705141333264bb.jpg)
三津田信三
光文社文庫
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推理小説と怪奇小説の双方に跨って、旺盛な執筆活動を続ける、三津田信三の初のホラー短編小説集です。
私は推理小説は全くの門外漢ですので、何も言えませんが、この短編集は相当にレベルが高いと私は思います。
完全に私見ですが、今の日本のホラー小説は、三津田信三と小野不由美の二強体制は揺るがない、
というのが、今の私の認識です(他の小説家はどうなんだ!など色々あると思いますが、そこは私見ということで…)。
中でも三津田信三の怪奇小説は、いわゆる心霊実話テイストに完全に特化していて、彼の小説を読むと、
ホラーの中で、日本において未だにリアルでヒップなのは、やっぱり心霊実話なのかな、とも思ったりします。
三津田信三はその怪談の中でも、相当に技巧的で、かつ独自の理論体系を持った小説家です。
逆にある意味、ここまで自己理論化を徹底して、小説を書く小説家も稀だと思いますし、
①理論が効果的=怖い、②理論化されているから量産が利く、③理論化されているから作品にバラツキがない、
という、ホラー小説安打製造機の如き、すさまじい小説家です。
私の中では、もはや「安心と信頼の三津田信三ブランド」になっています。
じゃあ、その理論って何なのさ?
という方の為に、巻末で評論家の日下三蔵が、分かりやすく特徴をまとめてくれています。
下記、孫引きしますと、
①メタフィクション(自分の身近な近況から始まる)
②アナグラムの多用(落ちが判明する時に、よく使われますね)
③推理小説と怪奇小説の要素のブレンド
④作品間のリンク(幾つかのシリーズを持っていて、共通の人物が出るなど)
⑤擬音の多用(これは怖いです)
確かにその通りで、基本的にはこの方法論に従って、三津田信三のホラー小説は成り立っているようです。
これらの理論が、何故効果的なのかと考えますと、つまるところは作品世界に、いかにリアルな感覚を与えられるか、
という部分に大きく貢献しているからだと、私には思われます。
先の特徴をより補強する為に、特に優れていると思うのが、圧倒的な場所(空間)の造形能力だと私は思います。
現に所収の、「灰蛾男の恐怖」という短編の中で、
「怪奇幻想系の作品は、化物や魔物が出没してもおかしくない気配が漂っていれば、もう九割は成功したと言えます」
と、著者本人が述懐すらしています。
この言葉通り、「灰蛾男の恐怖」の冒頭の、場所の造形は本当にすごいです。こりゃ確かに何かでるわ、という感じです。
また、その空間を、場所の由来や歴史といった、舞台衣裳にまでレンジを拡げてみますと、
「よなかのでんわ」が顕著ですが、この小説には作中に、「赫村」だの、「墓村」だの、「人牛村」だの、
相当に気持ち悪い村が、次々と登場してきます。よくこんな次々と思い付くもんだなあ…。
場所にまつわる来歴などをいちいち想像することは、相当に骨だと思うのですが、
そこは三津田信三が、推理小説の書き手でもあることが、大きく影響しているように、私には思われます。
このような構築力の長け方は、推理小説を思考する側から来ているのではないか、と私は思います。
これこそ完全な私の想像ですが、おそらく三津田信三は、そのような構築に困るタイプではないと思いますし、
小説を書くに当たっての、先の展開の見通しも、非常によく見えている人なのかな、と想像したりします。
これらの理論体系は何も心霊譚に限らず、それ以外の怪物を扱っても成立することも、ある作品で示されています。
ネタバレになると悪いので、どの作品とは、ここでは控えますが、私などは、「なるほど!」と膝を打った次第です。
面白くて怖い以外にも、(特に私如き、自分も書く人間には)勉強になるとは、何て素晴らしい小説家なのでしょう。
三津田信三は他にも、「ついてくるもの」、「誰かの家」、「怪談のテープ起こし」などのホラー短編集を出版していますが、
どれも傑作です。何と外れがありません!…一体、何という小説家なのでしょう。
私は大好きな小説家ですので、気になった方がいましたら、是非お手に取って戴ければ、と思う次第です。
お問い合わせはこちら
先の同人誌の原稿募集につき、お問合せフォームを作りました。
ご質問等がございましたら、コメントにメッセージを残して戴ければと思います。
感想等も大歓迎致します(ただし、悪質な誹謗中傷は止めてね)。
宜しくお願い致します。
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感想等も大歓迎致します(ただし、悪質な誹謗中傷は止めてね)。
宜しくお願い致します。
「DAMMED THING vol.01」
仕事やら、原稿入稿の締め切りやらドタバタで、当ブログもえらい長期放置プレイしてしまいましたが…。
果たして、どのくらい読者の方がいらっしゃるのか、分かりませんが…。
しかも、告知もギリギリのタイミングですが…。
ようやく、告知できる運びになりました。
つい先日、印刷所さんから、「無事入稿すみました」と、お知らせを戴きました。
(ほんとは、昨日まで入稿データに不備があるなど、最後まで印刷所さんには、ご迷惑をかけてしまいましたが…)
ホラー小説専門同人誌、「DAMMED THING vol.01」です。
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「DAMMED THING vol.01」ですが、当初から述べていた通り、
アメリカの怪奇専門パルプ誌、「ウィアード・テイルズ」もどきの同人誌です。
画像が見辛くて大変恐縮ですが、創刊号の特集は「怪物」。このテーマで2作短編が収録されています。
価格は500円になります。下記のイベントで販売致します。
第二十四回文学フリマ東京
【会場】 東京流通センター 第二展示場 2F エ‐29のブースで販売致します。
【開催日】 2017年5月7日(日) 11時~17時まで開催します。
アクセスはこちら↓
http://bunfree.net/?tokyo_bun24#l1
当日は、2Fの見本誌コーナーに、見本誌も用意しますので、
ご参照の上、ご興味のある方は、是非、お手に取って戴ければと思います。
でもなあ…。ぱらぱら見本誌見ただけじゃ、仕上がり具合もよく分かんないし、やっぱ気が乗らないなあ…。
という方がいましたら、どうかご安心ください!
ブースに、下記フリーペーパーも用意いたしました。短編を1編(本誌とは別の作品)収録してあります。
こちら、持ってけドロボー状態ですので、お気軽にお手に取って戴ければと思います。
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それでは、みなさま当日は会場でお会いしましょう。
あ!あと大事なこと忘れてました。
当誌では、ホラー短編小説の寄稿を大募集しております。
ホラー短編であれば、基本的にノーテーマ、年2回程度発行を考えております(次回は秋ですなあ…)。
ご興味やご質問のある方がいらっしゃいましたら、当日お気軽にお声がけください。
宜しくお願い致します。
果たして、どのくらい読者の方がいらっしゃるのか、分かりませんが…。
しかも、告知もギリギリのタイミングですが…。
ようやく、告知できる運びになりました。
つい先日、印刷所さんから、「無事入稿すみました」と、お知らせを戴きました。
(ほんとは、昨日まで入稿データに不備があるなど、最後まで印刷所さんには、ご迷惑をかけてしまいましたが…)
ホラー小説専門同人誌、「DAMMED THING vol.01」です。
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「DAMMED THING vol.01」ですが、当初から述べていた通り、
アメリカの怪奇専門パルプ誌、「ウィアード・テイルズ」もどきの同人誌です。
画像が見辛くて大変恐縮ですが、創刊号の特集は「怪物」。このテーマで2作短編が収録されています。
価格は500円になります。下記のイベントで販売致します。
第二十四回文学フリマ東京
【会場】 東京流通センター 第二展示場 2F エ‐29のブースで販売致します。
【開催日】 2017年5月7日(日) 11時~17時まで開催します。
アクセスはこちら↓
http://bunfree.net/?tokyo_bun24#l1
当日は、2Fの見本誌コーナーに、見本誌も用意しますので、
ご参照の上、ご興味のある方は、是非、お手に取って戴ければと思います。
でもなあ…。ぱらぱら見本誌見ただけじゃ、仕上がり具合もよく分かんないし、やっぱ気が乗らないなあ…。
という方がいましたら、どうかご安心ください!
ブースに、下記フリーペーパーも用意いたしました。短編を1編(本誌とは別の作品)収録してあります。
こちら、持ってけドロボー状態ですので、お気軽にお手に取って戴ければと思います。
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それでは、みなさま当日は会場でお会いしましょう。
あ!あと大事なこと忘れてました。
当誌では、ホラー短編小説の寄稿を大募集しております。
ホラー短編であれば、基本的にノーテーマ、年2回程度発行を考えております(次回は秋ですなあ…)。
ご興味やご質問のある方がいらっしゃいましたら、当日お気軽にお声がけください。
宜しくお願い致します。
メラニー・テム&ナンシー・ホールダー「メイキング・ラブ」
![20070108195529[1]](http://blog-imgs-97.fc2.com/a/b/c/abc01784/20170203204939199.jpg)
メラニー・テム&ナンシー・ホールダー
創元推理文庫
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アメリカの閨秀作家2人組のユニットによる、女性の描いたエロいホラー小説です。
つい先日ネットで知って驚いたのですが、片割れのメラニー・テムは、2015年に亡くなっていたようです。
謹んでご冥福をお祈り致します。
彼女は、かつて長編「深き霧の底より」が刊行された、短編の名手、スティーヴ・ラズニック・テムの妻で、
夫妻による共作短編も何作か翻訳されています。
前回紹介した、いかにも男性らしくフィジカルで、即物的なホラー小説の「インキュバス」と比べると、
こちらはいかにも女性らしい、ハーレクインがかった、情感に重きを置いたエロいホラー小説に仕上がっています。
お話ですが、孤独な女教師シャーロットに、頭のおかしな弟カメロンが、「完璧な恋人を創れる」と、
完璧な恋人を創造し…という、フランケンシュタインにも通じる、人造の生命もの(?)を踏襲した内容です。
概要だけかい摘むと、さして触手が伸びなさそうなところが、この小説を紹介する上での難点ですが、
ところがこの小説、非常に読み応えがありまして、実は半ば期待していなかっただけに、嬉しい誤算でした。
全編を通じて、派手な展開はほぼ皆無ですが、人間の内面の機微を、丹念に追っている為に、
実は派手な行為がないだけで、小説自体は起伏に富んでいて、常に揺れ動いている印象を受けます。
こう書くと当たり前で恐縮なのですが、まず登場人物の描き方が上手く、読みながら「あ、確かにこんな人いるわ」と、
読者が(共感ではなく)実感できるように描かれてあるのは、それだけで大したものだと思います。
抑圧的な母のせいで、同じ性格になり、変化を望みながら、同じくらい変化を畏れる主人公、
典型的な芸術家肌で、感情の起伏が激しく、奇行を繰り返し、後先を顧みない弟、
その弟に盲目的に惚れてしまい、警戒心がほぼ皆無でグルーピー的な、主人公の同僚など、
彼らの内面や振る舞いが、見事に描かれてある為に、後々「完璧な恋人」の異質な存在が、大きく生きてきます。
そして、その生命に創造に、何のロジックもない点が、いっそ清々しいくらいでした。
言わば、精神力で人間を創造するのですが、その掘っ立て小屋みたいなところに、花弁が舞い、音楽、匂い、光が満ち、
譫妄状態のような磁場の中で、それは形作られ、この小説は、このような場を描く力に、実に長けています。
理屈なんかなくても、描写で十分に伝わりますし、抑圧された夢が現実を浸食するような、危うい世界観が、
見事に描かれてあると思います。
その中で、ふいに湧き起こる官能があっても、何ら不思議ではないと思います。
あまり「完璧な恋人」のことに触れると、ネタバレになりますので、控えめに書きますが、
勿論、お話を抜き差しならない方向に導いていくのは、この存在の抱える謎です。
自然や生命の摂理に反した、この不自然の極みみたいな、理解し難い存在にすら、著者の筆は光を与え、
一切の内面描写がないにも関わらず、この存在の抱えるものが、想像できるように描かれてあります。
この創られた生命の抱えるものは、多くのSFでもそうでしたが、いつだって哀しみが付き纏いますね…。
また、全体的に抑制が効いた分、クライマックスの情景はかなり壮観です。見事な緩急だと思います。
というわけで、読み応えたっぷりのホラー小説で、このユニットの第2弾、「ウィッチライト」は、いつか是非読みたいです。
それにしても、惜しい人を亡くしました。このユニットでは、もう作品は読めないのですね…。
文学フリマ申し込みました
今年の5月7日(日)、東京流通センターの第二展示場で開催される、
第二十四回文学フリマ東京に、出店の申請をして、ブースを1つ確保しました。
実はまだ、同人誌は影も形もできていないのですが、
とりあえずやるんだ!ということで、先に押さえてしまいました。
カテゴリの「はじめまして」の欄でも記しましたが、「ウィアード・テイルズ」もどきの、短編中心の、
ホラー小説専門誌を創刊したいと考えています。
体裁等はまだ未定ですが、今は同人誌に参加してくれる方と、少しずつ詰めている段階です。
このブログを、どれだけの方が、読んで戴けているのかは分かりませんが、
主旨が同人誌の活動状況の告知ですので、晴れて発表できる段階になりましたら、また告知したいと思います。
勿論自分でも、何らかの作品を発表するつもりですが、そちらはまだ何も考えておらず…。
ほんとに、何とかなるのでしょうか…?
私は一体、誰に訊いているのでしょうか…?
いや、やるしかないので、何とかします!いつも試験は一夜漬けでしたから。
きっと今回も、何とかなる(はず)。
第二十四回文学フリマ東京に、出店の申請をして、ブースを1つ確保しました。
実はまだ、同人誌は影も形もできていないのですが、
とりあえずやるんだ!ということで、先に押さえてしまいました。
カテゴリの「はじめまして」の欄でも記しましたが、「ウィアード・テイルズ」もどきの、短編中心の、
ホラー小説専門誌を創刊したいと考えています。
体裁等はまだ未定ですが、今は同人誌に参加してくれる方と、少しずつ詰めている段階です。
このブログを、どれだけの方が、読んで戴けているのかは分かりませんが、
主旨が同人誌の活動状況の告知ですので、晴れて発表できる段階になりましたら、また告知したいと思います。
勿論自分でも、何らかの作品を発表するつもりですが、そちらはまだ何も考えておらず…。
ほんとに、何とかなるのでしょうか…?
私は一体、誰に訊いているのでしょうか…?
いや、やるしかないので、何とかします!いつも試験は一夜漬けでしたから。
きっと今回も、何とかなる(はず)。
レイ・ラッセル「インキュバス」
![20070108195529[1]](http://blog-imgs-97.fc2.com/a/b/c/abc01784/2017012814061812f.jpg)
レイ・ラッセル
ハヤカワ文庫NV
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この小説ですが、一言で言いますと、エロいホラー小説です(という割りには、さしてエロくもないのですが…)。
題名になっていますインキュバスとは、キリスト教圏の経典で記された、女性を誘惑する男の色魔のことで、
男性を誘惑する女の色魔をサキュバスと言います。
お話ですが、さるアメリカの田舎町で、次々と暴行された女性の遺体が発見され…というものです。
当然、題名にもあるインキュバスの存在が、作中で大きく浮上してくるのですが、
長編モダンホラーのセオリー通り、インキュバスの存在究明に、多くの筆が費やされることになります。
通常の、怪異の存在究明の方法としましては、おおよそ以下の感じだと思われます。
①科学的見地での状況検分。②古文書などを参照に、古来の伝説や風聞と事象の照合。
実際にこの小説でも、先の①②の双方で究明が行われます。
ネタバレになるので、詳しく書けませんが、①での法医学者の検死結果は、一読の価値ありと思います。
ものすごい状況ですから…。私は喫茶店で読んで爆笑しました。男性読者なら分かると思います。
話を戻しますと、究明の過程で、医者、警官、人類学者などが、喧々諤々と意見を戦わせるのですが、
この小説の特徴的な点は、怪異の存在を疑うあまり、それが背理法のドツボに落ち込んでいく点にあります。
「インキュバスがいるとすると、これこれの矛盾が生じる。故にインキュバスはいない」
「インキュバスがいないとすると、これこれの状況が説明できない。故にインキュバスはいる」
そんな難しい話でもないのに、何故にそんなややこしいことを…?
私は、解明の過程において、従来型の、「ただ単に信じ難い」という頑迷な否定から、
存在を何重にも否定して、存在の仮定自体疑わしくなる、という、新たな常識の壁の築き方が、
従来型の存在否定から、一歩前進した感があって、そこが面白いと感じました。
ここがより先鋭的になれば、それはまるで、ディックの悪夢のSF世界のようではないですか。
惜しむらくは、その背理法の応酬と、作中で起こる出来事が、あまり上手くリンクしていると思えなかったことです。
確かにそれもそうで、この小説は別に、現実認識の揺らぎが主題ではありませんから。
(以下、ネタバレ含みます。ご注意を!)
読むうちに、どうやらインキュバスは、普段は町で普通に暮らす人間なのですが、
興奮状態になると変身するらしい、ということが判明してきまして、
一体誰が…という、フーダニット的な展開になるのですが、その方向性が間違っている、と感じられました。
何故、こんな展開になったのかと考えますと、それはインキュバスの設定に失敗したからだ、と思います。
この小説でのインキュバスは、夜な夜な女性を襲う犯罪者となんら変わらず、
行動原理がまるで、男性優位主義を誇示するだけの、男の人間の如しです。
せっかくの色魔なのですから、内面的に(夢魔的に?)、町の女性たちを籠絡させる存在であった方が、
ホラーとしても面白い展開が望めたと思いますし、エロかったのではないか、とも思います。
作風は王道的な展開で、それなりに読ませるのですが、
伸びしろのある部分と、伸びしろを摘む部分の混在した、全体的には、ごつごつした印象の小説だと感じました。
最初に町の情景描写があって、そこには美女が多い、とつらつら紹介されていた時には、
何だか、設定が随分露骨だなあ…と、面白く感じましたが。
こういう設定一つを取っても、マチズモの思想が濃厚な、極めて男性的なホラー小説だと思います。
続けて次回、サキュバスではありませんが、女性の書いたエロいホラー小説を取り上げたいと思います。
ジョン・コリアー他「怪奇小説傑作集2」
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ジョン・コリアー他
創元推理文庫
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この分野の登竜門とか、マスターピースとの誉れ高い、名アンソロジーの第2巻です。
第1巻は、19世英国の、伝統的な怪奇小説を中心としたラインナップでしたが、
第2巻は、英米(といっても、依然英国中心ですが)の、20世紀中期までの、モダンホラー集になっています。
伝統的な怪奇小説と、モダンホラーの主な違いにつきましては、巻末の解説で、平井呈一が見事に要約していますが、
ゴシック小説の様式から発展し、日常とは異なる空間や道具立てを設定し、そこで恐怖が訪れる怪奇小説に比べて、
日常生活のさなかに、切れ目を入れるように、いきなり恐怖を捻じ込む、というのがモダンホラーの主な手法だそうです。
実際に、第1巻と第2巻を読み比べますと、かなり異なった印象を受けるように思います。
第1巻は、その空間とか磁場の描写に力点が籠るせいか、全体として、重苦しく堂々たる印象を受けますが、
第2巻は、ふとした日常がふいに変転するソリッドさや、重苦しさの対極にあるような、婉曲的な軽やかさを感じます。
第2巻の中でも、F・M・クロフォードの「泣きさけぶどくろ」、フレデリック・マリヤットの「人狼」は、伝統的な怪奇小説で、
一冊の中でも両者の違いがよく分かる、素晴らしいセレクションになっています。
この2作を、モダンホラーの中から仰ぎ見ると、却って新鮮で、今の時代でこれを真似ても、成立しないんだろうなあ、
と何やら隔世の感を感じます。恐怖は、どの時代にあっても、時代に即した一過性のもので、後年幾ら真似ようとしても、
決してそのムードまでは再現し切れない、という大事な特性を、この2作が伝えてくれるように思われます。
どちらも、濃厚でムードたっぷりで、これもまた素晴らしいんですよね。
今回も全ての作品は挙げられませんが、私見では、とにかくサキの「スレドニ・ヴァシュタール」が刺さりました。
この小説は、作品全体がソリッドどころか、一文一文のレベルまでソリッドで、半端ではない切れ味の鋭さです。
後半、主人公の少年が、祈禱(というか呪詛)の誦句を唱え出すくだりなどは、文章の構築美の極みとも言うべきすごさで、
怖い以前に、何てカッコいい小説なんだ、と私は読みながら唸りました。いや、ほんと素晴らしいです。
その分、典型的な、モダンな怖さを堪能させてくれるのが、L・P・ハートリイの「ポドロ島」です。
お話は、船乗りして、題名にある孤島にピクニックに行くだけの、他愛のない出だしなのですが、
猫に餌をやろうと苦戦していた女性が、ふと「つかまえられなければ、殺してやるわ」と呟く辺りから、
徐々に怖さを増す婉曲表現が見事で、これを読むと確かに19世紀から、恐怖の様態は変わったのだと、痛感させられます。
ジョン・コリアーの「みどりの想い」は植物怪談の名作ですが、途中で視点が入れ替わる辺りに、妙なおかしみを感じさせる、
これもまた軽快さといった、モダンの特徴を感じさせる一作だと思います。
単に軽快さということで言えば、ヘンリイ・カットナーの「住宅問題」とか、ベン・ヘクトの「恋がたき」など、
米国の作家の作品の方が勝っているようですが、この頃の米国は既に各パルプ誌が、ジャンルの凌ぎを削る、
独自の文化様式を築いていた頃でもあり、そのせいか、純粋なホラーに留まらず、ファンタジーやSFなど、
ジャンルを横断する、「奇妙な味」といったテイストが、英国の作品に比べると強いように思われます。
私は自身が、「ウィアード・テイルズ」が好きなのにも関わらず、少なくともこのアンソロジーでは、
より繊細な婉曲表現に冴えを見せる、英国の作品の方が、深みがあり、読み応えもあったように感じました。
スティーヴン・キング「呪われた街」(上下巻)
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スティーヴン・キング
集英社文庫
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前回の、ブラム・ストーカーの「吸血鬼ドラキュラ」の記事の最後に少し記しました、
今一つの吸血鬼小説の決定打は、何といってもこの小説だと私は思います。
この小説は、吸血鬼小説の決定打であるだけではなく、モダンホラーの一定型を確立させた、記念碑的作品だと思います。
この小説のことはどれだけ褒めても褒め足りないほど、作品も素晴らしく、後世に遺した影響も絶大だと思います。
「吸血鬼ドラキュラ」から、「呪われた街」までは、約100年の開きがあり、その間に吸血鬼やドラキュラは、
誰もが知るところとなり、下手をするとパロディにしかならない状況であることは、誰もが把握していたと思いますし、
賢明な作家なら、吸血鬼を新釈を与えるなど、吸血鬼のパターン拡張の方に向かうところを、
ただ一人、キングだけが、本気で「吸血鬼ドラキュラ」に、真っ向勝負を挑んだのではないでしょうか?
(他にもそのような作品があったら、寡聞にして恐縮ですが…)
「吸血鬼ドラキュラ」に倣って、キングがこの小説で果たそうとしたことは、ガチで怖い吸血鬼の復権という、
その一点に尽きると思います。
で、この小説の吸血鬼ですが、本気で怖いです!
怖いのは、吸血鬼が凶行に及ぶ瞬間ではなく、そこに吸血鬼がいる…、という、この世ならぬものすごい瘴気です。
特に、二階に吸血鬼がいるのに、十字架を握りしめたまま、怖すぎて階段を登れない教師のくだりなど、
教師の恐怖感が、読んでいるこちらにも嫌というほど伝わってきます。何というキングの筆力!
突然ですが、フィクションでの怖さは、なるべく(主観や考え方などの)個人差が少ない方がいいと思うのです。
万人を怖がらせるのは不可能だとしても、最大公約数的に怖がらせられれば、それは成功している、という考えです。
この小説の吸血鬼が怖いのは、登場人物の怖がり方が、尋常ではないほどリアルだからです。
密閉下でパニックが伝播するように、恐怖も上手く描ければ、それはちゃんと伝播すると、私は信じたいです。
そういった意味でこの小説は、フィクションでできる怖さが、正当な手順で、ほぼ完璧に描かれていると思います。
そして、その恐怖をリアルなものにする為に、キングが取った手法は様々にありますが(固有名詞の氾濫など)、
中でも、最も効果的で、魅力的な方法が、現代(といっても、今からもう40年以上前ですが)の、
アメリカの南西部の田舎町に、吸血鬼を引っ張り出してくることで、これで、一つの田舎町が吸血鬼に侵略されて、
人知れず崩壊する…という、ホラーの舞台設定としては、これ以上ないほど魅力的な舞台装置を作りました。
また、これを何人かの主要人物はいるものの、三人称多視点で描いたことが、また効果抜群だったと思います。
平井呈一が、モダンホラーについて、「現実にいきなり異世界の裂け目を作る」と評したことがありましたが、
極めてリアルに描かれた田舎町を浸食する吸血鬼とは、異世界の裂け目の最たるものだと思います。
実は私は、キングの最大の功績は、怪異で滅ぶ街という、モダンホラーの一定型を確立させたことだと思います。
「吸血鬼ドラキュラ」に真っ向勝負を挑む決意と、それを成立させる地力は、誰もが持てるものではないと思いますが、
吸血鬼ではない、オリジナルの怪異で、一つの街を滅ぼすことなら、自分にもできるかも知れない…。
キングの意図かどうかは別としても、後進のホラー作家たちに与えた希望もまた、非常に大きかったように思います。
私は個人的には、クトゥルーもののフォローを読むなら、滅ぶ街の作品の方が読みたいですし、
自分でもいつか書けたらなあ…と、今でも、夢見るような気持ちで思うことがあります。
また、昔は、古い吸血鬼映画などを見ていますと、とっくに原因が吸血鬼だと分かっているのに、
ああだこうだと原因を推測する、長いくだりがよくあって、それには半ば閉口していたことがありましたが、
この作品を読んで、いや、それは(作品によっては)やはり必要なんだ、と考えが変わりました。
こういうことは、とても地味なことですので、さほど印象に残らず、看過されがちな部分でもあるかと思いますが、
先にも述べた通り、この作品が書かれた時点で、既に吸血鬼は扱い次第で、パロディにしかならなかったわけで、
吸血鬼の実在を保障する為に、人物たちの「そんな馬鹿な、信じられない」という、常識の大きな壁との対立は、
私は、本気で恐怖を求める作品であればあるほど、避けては通れない手続き、みたいなものだと思います。
このことは、街の被害が甚大になれば、医学的措置や、警察の介入が避けて通れないのと同様に、
作品におけるリアルを、根底で支える部分になると思います。この小説も、勿論その点は丹念に描かれています。
ただ闇雲に「吸血鬼ドラキュラ」に挑むのではなく、様々なアイデアと、キング自身の資質が噛み合ったこの作品は、
下手をしたら、「吸血鬼ドラキュラ」以上に、後進にとっての、吸血鬼小説の高い壁になったようですし、
かのクーンツも、どこかで、「呪われた街」に挑むのは、賢明ではない」と述べていたようでした。
ところが…。この小説から30年近く経って、今度はアメリカでもイギリスでもなく、何と、我が国(!)から、
更なる超弩級の吸血鬼小説が出るのですが、この本、あまりにぶ厚くて、読み直すのに時間がかかりますので、
また機会があれば、後述したいと思います。
ブラム・ストーカー「吸血鬼ドラキュラ」
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ブラム・ストーカー
創元推理文庫
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ホラーといえば吸血鬼!
…かどうかは分かりませんが、改めて読み直しました。お話はあまりに有名ですので割愛します。
吸血鬼といえばこの作品以前にも、レ・ファニュの「吸血鬼カーミラ」や、ジョン・ポリドリの「吸血鬼」など、
前例は既にあったわけですが、この小説がそれらの前例を越えて、何故吸血鬼小説の決定打になったかついては、
様々な要因があると思いますが、何よりの要因は、作者の本気度の高さにあったのではないか、と私は思いました。
吸血鬼は血を吸い、感染するなどの特性から、性的なものも含め、様々なメタファーを付与できますが、
根本にあるのはあくまで、それが死を侵犯し、周囲に死をもたらす禁忌に塗れた存在、という点にあったはずです。
吸血鬼は本気で怖いのだと確信し、この禁忌に抵触する恐怖、即ち、自分が生きながらにして死に穢される恐怖を、
ここまで骨太に、かつ仔細に描いた作品が他になかったから、この小説が、吸血鬼小説の決定打になったと思うのです。
実際、改めて読みながら、この小説での吸血鬼の存在は徹底して忌わしく、21世紀の今にも通じる、というレベルを越えて、
本気(殺気といってもいいと思いますが)で描かれたホラーは怖い、という真理を読者に伝えてくれます。
私が考えるホラー小説の妙味とは、馬鹿馬鹿しいと思いながらも読み進めるうちに、作者の迫真の筆遣いに引き込まれ、
「くだんねえ。しかし、ひょっとすると、もしや…」と、読者がそこに描かれた世界を、一瞬でもリアルに感じる、
その瞬間にあると思いますが、この点も、この小説は周到かつ念入りです。
読者がその作品をリアルに感じるには、まず、作中の人物が、それを信じる必要があります。
そこで、かのヴァン・ヘルシング教授が登場し、何人かの協力者に、吸血鬼を信じさせるよう延々と説得します。
読者に、19世紀時点で、既に十分に科学的で懐疑的な人物たちが、吸血鬼を信じざるを得なくなる過程を見せて、
その世界に対してのリアルさを、徐々に獲得させていく、という周到な戦略が、随所に用いられています。
恋人を救う為に、死体に杭を打たなければならないアーサーの苦しみと、それを伝えるヘルシングの苦悩は、
人間ドラマとしても、ある極点に達しており、この辺りの展開は素晴らしいとしか、言いようがありません。
また、この小説は、速記や、当時の先端技術(?)だった蠟管録音による口述日記なども用いた、
複数の人間の手記の寄せ集めから構成されています。これが作中にリアルさを与える為の選択だったことは、
まず間違いないと思うのですが、読みながら一つ気になることがありまして、特に後半に顕著なのですが、
どの人間も手記を執筆しながら、可能な限り正確に事態を記述することに、取り憑かれたように拘り出す点です。
文字通り、彼らは寝食すら忘れて、正確な記述に没頭し始めます。しかも執筆する全員が。
確かに、後半は吸血鬼との追跡劇の様相を呈してきますので、吸血鬼の行動を予測する為にも、
作劇としても、正確な記述は一応必須となっているのですが、それにしても鬼気迫る正確さへの拘りぶりで、
まるで吸血鬼よりも、記述において正確さを欠く方が恐ろしい、とでも言わんばかりです。
このオブセッションは、一体何なのでしょう?どの人物も等しく、その考えに支配されていることを考えると、
これはもはや作中の人物の考えではなく、作者本人の考えと見るべきでしょう。
勿論、私如きに真相など分かるわけもありませんが、このことについて、私はこう想像してみました。
作者は何年もアイデアを温め、ルーマニアの串刺し公をモチーフにするなど、入念に作品を練ってきたわけですが、
それでも、本当に吸血鬼の存在を、読者がリアルに感じてくれるか、そこに大きな不安が付きまとっていたと思うのです。
聡明な作者は、読者が吸血鬼の存在をリアルに感じるか、この小説が成功するか否かは、
そこにかかっていることを、知っていたと思うのです。
読者にリアルを感じさせる為に、作者が選んだ手法が、「正確な記述」にあったのではないか?
正確な記述へのオブセッションは、実は作者自身のオブセッションだったのではないか?これが私の想像です。
血液型を無視した輸血などは、今となっては陳腐化した科学的アプローチですが、作者は吸血鬼に信憑性を与える為に、
手記を用いたドキュメンタリータッチ、科学的見地、民俗学的見地など、およそ考え付く限りのあらゆる方法で、
吸血鬼のリアルさを、作品の中に実際に希求しています。
吸血鬼は絶対に怖いという本気さと、それを保障する為の、数々の周到な仕掛け。
これらが渾然一体となって、作品を読み進める読者に襲いかかってくるからこそ、
この小説は、吸血鬼小説の決定版になり得たのではないか、というのが、私が今回読み直して思ったことでした。
ところが…。この小説から100年近くを経て、今度はアメリカから今一つの、吸血鬼小説の決定打が登場します。
その作品については、また折を見て後述したいと思います。
那智史郎 宮壁定雄編「ウィアード・テールズ4」
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ヘンリー・カットナー他 那智史郎 宮壁定雄編
国書刊行会
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この第4巻は、黄金時代後期(1936年~1939年)の作品を収録したとのことですが、
あれ?また全体的にB級度が増した印象が…。
巻頭のロバート・ブロックの「暗黒神の神殿」からして、隠されたナイアルラトホテップの神殿には、人類の未来が壁画で!
と、派手に風呂敷を広げた割りには、この素朴な終わり方…。初期ブロックらしいB級作品です。
原形質の怪物を扱った、ソープ・マックラスキーの「しのびよる恐怖」では、
怪物を退治するには、怪物に取り込まれた時に、意志を強く持つことだとされるのですが、
この退治法は、フランク・ベルナップ・ロングの「千の足を持つ男」でも使われておりました。
細胞の塊に過ぎない原形質に、何故意志が通じるのか、また、それを是と当時は受け止めていたのか、
考えると何とも不思議な気がします。
「怪人悪魔博士」という作品は、題名通りの悪い人と、探偵との対決を描いた作品ですが、
この怪人、すごい能力をお持ちの割りには、動機が何ともセコく…。何というか、微笑ましい感じがします。
このシリーズはどうやら8作続いたそうですが、これは続きを読んでみたいものです。
中には、「悦楽の館」という、悪の催眠術師の姦計を、二人称の形式(!)で語る珍品もあります。
巻末は楽しみにしている、「闇からの侵入者」ですが、終盤手前に至って、ようやく周囲に災いが及び始め、
真っ当なホラー的展開を迎えます。そういう意味では、展開がかなり遅い部類のホラー小説とも言えますが、
この作品の場合、素朴な叔母の語り口調が実に心地良く、この泰然としたペース自体に特徴があると思います。
こうして居並ぶB級ホラー小説群を読みますと、B級精神というのは、整合性や作品の収拾よりも、
「とにかくこれが書きたい!」という獰猛な欲望の方を優先してしまった、ある種の冒険に近い試みなのかな、
などと考えながら、愉しく読ませて貰いました。中には、単に浅慮なだけ、という作品もあったようですが…。
A・ブラックウッド他「怪奇小説傑作集1」
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A・ブラックウッド他
創元推理文庫
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このアンソロジーは全5巻の、怪奇小説の名作集とも言うべき、国産ホラーアンソロジーのマスターピースです。
第1~3巻が英米編、第4巻が仏編、第5巻が独・露編のカップリングになっています。
この第1巻は、19世紀から20世紀初頭にかけての、英国の黄金期の怪奇小説を中心に収録した選集です。
改めて収録された作品を見ますと、正攻法の極みとも言うべき、ものすごい重量級のラインナップです。
しかも!これで終わらず、第2巻、第3巻と作品が続くところに、英米のずば抜けた層の厚さを痛感させられます。
今は21世紀のIT社会ですから、レ・ファニュの「緑茶」の合理的説明の部分や、ヘンリー・ジェイムズの心理小説の実践や、
ブルワー・リットンの「幽霊屋敷」の後半で、突如湧き起こる神秘学の問答など、今の目から見ると、
古臭い部分があることは確かに否めませんが、それが作品の面白みまで奪っているわけではないと思います。
この選集に駄作は1つもありませんが、中でもアーサー・マッケンの「パンの大神」が、私は一番好きです。
従来の幽霊譚とは大きく異なった、新たな恐怖を創造しようという、マッケンの意志が作中に漲っていますし、
マッケンの作品からは、他の作家にはない独特の、禁忌を土足で踏みにじるような、強烈な不浄の感覚を感じます。
この作品を読むと、ラブクラフトが、いかにマッケンに多くのものを負っていたかがよく分かります。
また、マッケンの物語を語る手際が非常に独特で、この作品では、それが絶妙の効果を上げていると思います。
どちらかといえば無骨な語り口の人ですが、いきなり違う人間から話が始まったり、複眼的にこの作品を捕えたことで、
関わる者全てに災いをもたらし、しかも所在の摑めない存在、という野放しの怪異の怖ろしさが、実に上手く描かれています。
全ての作品は挙げられませんが、他に気になった作品はと言いますと、
「猿の手」は、アイデア、展開、描写の三拍子が、ここまで見事に噛み合った作品は稀なほど、よくできた怪談ですし、
E・F・ベンスンの「いも虫」もまた、アイデアが非常に素晴らしい作品です。ハヤカワ文庫の「ハードシェル」に収録された、
ダン・シモンズの「転移」という作品が、私は大好きですが、それの元ネタになった作品です。
W・F・ハーヴィーの「炎天」について、解説で平井呈一が、「光り苔のようなかすかな燐光を放つその作品」と評したのは、
全く言い得て妙で、一瞬の切れ味の鋭さと、アスファルトの向こうに立ち上る陽炎みたいな、ある種の頼りなさが混じり合った、
何とも言い難い、不思議な読後感を残す作品です。
そして、忘れてはならないのは、アメリカ文学の大家ヘンリー・ジェイムズ(怪奇小説家とは言ってはいけない人)で、
この人が独自の心理文学の手法を、怪奇小説に持ち込んでくれたおかげで、
怪異を直接的に描写しないという、怪奇小説における大きな選択肢を、後進の作家たちに残してくれたのですし、
そこから、その考えを「朦朧法」として、より先鋭化させた、デ・ラ・メアみたいな人が出てきたわけですから。
彼の「エドマンド・オーム卿」は、恐怖の描写と真相解明に明け暮れる、従来型の怪奇小説とは、
大きく印象の異なるものですし、幽霊の所在から、ある娘と恋人の恋愛感情や、娘の母と恋人との共犯意識まで、
扱われている対象のレンジが広く、私には読み応えたっぷりの小説でした。
しかし、こうして見ますと、私が好きな国書刊行会の「ウィアード・テールズ」とは、あまりにレベルが違い過ぎるなあ…。
後ろ向きな登場人物たち
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ビル・プロンジーニ
創元推理文庫
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名無しの探偵シリーズで著名な、プロンジーニのこの小説ですが、これはホラーではなくサスペンスですね。
あまりジャンルの位置付けにこだわると収拾が付かなくなるので、これ以上は差し控えますが。
お話ですが、マルティグラの真っ最中のニューオーリンズを舞台に、ジルーという旅行者が、
身に覚えのない脅迫を受けたり、謎の仮面の男から尾行されたり、次第に追い詰められ…という内容です。
ネタバレになるので詳しく書けませんが、
まあ、それだけっちゃそれだけの、身も蓋もない話ですが(読んでない人にはさっぱりですね。すみません)、
それだけで長編を仕立て上げたプロンジーニはすごい、と見るべきなのか、何とも微妙なところですね。
ただし、プロンジーニは追い詰められた人間が陥った際の、ある種の譫妄状態を、
時にはその人間の感覚に潜り込むようにして、臨場感を持って描くのに長けていますので、
その手法が今作でも大いに活かされています。というか、それなしでは長編として持たなかった気もします。
実はそれよりも、読みながら気になったことがありまして、それはこの小説の主人公が、
何かというと自己憐憫に浸ってばかりで、自分では何も決断できない、極めて優柔不断な人間として描かれている点です。
途中から作品を引っ張るのは、途中で知り合った強い女性の方で、主人公は彼女の言うままに動くばかりです。
思えば、オプ(名無しの探偵)こそそういう人でした。著者と登場人物は同一人物ではないことは承知していますが、
こんな人物ばかり造形されると、プロンジーニ自身がそういう人なのでは、と思わず勘繰りたくもなってきます。
たいてい、こういう人間は何かと昔のことを振り返る癖があって、憐憫の開陳がしつこいんですね。
ところが、まだ上には上がいました。その作品がこちら。
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![20070108195529[1]](http://blog-imgs-97.fc2.com/a/b/c/abc01784/20161218194016886.jpg)
チャールズ・L・グラント
ハヤカワ文庫NV
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モダンホラーの「雰囲気派」こと、チャールズ・L・グラントの長編ホラーです(今度はホラーです。良かった)。
曰く付きの旧館に謎の買い手が付いて以降、街全体に怪異が続発するという、スティーブン・キングの「呪われた街」以降、
モダンホラーの一典型となった、「街もの」(こんな言い方があるのか、私は知りませんが)の小説です。
解説によるとグラントも、「呪われた街」に強い影響を受け、七度読み返したとのことですが、
さすがに「呪われた街」と比べると、作家としての地力の差が、如実に露呈している感はどうしても否めません。
「街もの」の典型的な流れとしましては、まず舞台となる街やそこに住む人を丹念に描くことで、
作品に現実感を与えておいて、次に街を覆う怪異の浸食を、多視点で頻発して描く、というものです。
この点、この作品も見事に、「呪われた街」のパターンを踏襲しています。館に買い手が付く点も全く同じです。
で、この小説ですが、決して悪い作品ではないと思います。
グラントという人は、地味で展開に乏しいとよく批判されますが、それはある種、「雰囲気派」の宿命でもありますし、
それに、読むとちゃんと、「こと」は随時起こっています。決して雰囲気ばかりに筆を費やしているわけでもありません。
という小説の概要から、いきなり先の、後ろ向きな登場人物の件に話を戻しますが、
この小説でも一番際立っていると思ったのが、主要な人物たちの後ろ向きな言動の数々でした。
「マスク」では、憐憫に浸るのはまだ主人公だけでしたし、憐憫も内面描写に留まって(思うだけの状態で)いたはずです。
「マスク」の主人公がそういう人物造形だったのは、これもネタバレの為に詳しく書けませんが、
百歩譲って、作品の展開を鑑みて、そういう性格を与える必要があったから、と見なすことも可能です。
ところが、「ティー・パーティー」のそれは、もう作品の展開とは何の関係もありません。
こちらは、主要人物の何人かが等しくそういう性格である上に、部屋で「しっかりしろ!」といきなり自分を叱咤したり、
自己卑下が極まって誰もいないのに、照れ隠しじみた笑顔を浮かべたりなど、実際に寒々しい振る舞いに及びます。
こんなことをされると、読んでいるこちらがいたたまれなくなって、気恥ずかしさに身悶えしたくなります。
かといって、モーリス・ルヴェルの小説の孤独な人物たちみたいに、寒い冬の部屋で家具の角に足の小指をぶつけ、
誰もいないのに芝居がかった感じで、「おお、痛たた」などと口にする、あの身を切るような寂寥感もありません。
こう考えると、孤独と自己卑下では、似て非なる印象があります。自己卑下は、読者の嫌なツボを妙に刺激しますね。
何故彼らは好き好んで、登場人物にこういう性格を与えるのか?こればかりは、本人に聞く以外に分かりようがありません。
ただ、いくら明快な物語性を持った作品であっても、創作者の生理から湧き出たものである以上、
多くの小説には、このような、説明の付けようのない部分が潜んでいるように思われますし、
今の私が読んで面白いと思うのも、そういう創作者の生理が、生の形で小説に表れた部分だったりします。
というわけで、この項、結論はありません(すみません!)。
シーベリイ・クイン「悪魔の花嫁」
![20070108195529[1]](http://blog-imgs-97.fc2.com/a/b/c/abc01784/20161204194247269.jpg)
シーベリイ・クイン
創元推理文庫
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ホラー小説には数多くの心霊探偵ものがありますが、本書はウィアード・テイルズを代表する寄稿家の一人、
シーベリイ・クインによる、ジュール・ド・グランダンものの、唯一の長編作品です。
何でもこのジュール・ド・グランダンものは、全部で93編も書かれたとか。ものすごい数です。
著者及びこのシリーズについては、巻末に訳者でもある大瀧啓裕による、非常に詳細な解説がありまして、
私如きが新たに付け加える事柄など何もないのですが、私見を以下に軽く述べておきます。
巻末にも述べられている通り、このクインという人の一番の特徴は、明朗さと快活な語り口にあると思います。
ウィアード・テイルズに全部で150編以上もの作品を寄稿した、筋金入りのパルプライターだけあって、
プロットの堅牢さ、次々と凝らされる趣向や展開の速さなど、鍛え抜かれた職業作家特有の地力を感じます。
実際、この小説は序盤から実に展開が早く、章毎に必ず何かしら事件が起き、退屈している暇がありません。
作中の人物もおちおち寝ていられないほど、捜査に奔走する羽目になります。
この小説は事件の捜査をするか、休憩に食事を取るかの、いずれかしかほぼ描かれていないといってよく、
食事する度に、事件の報告が来て食事が中断…という辺りが面白かったです。
また、このシリーズは、作中で必ず真相が明らかにされる論理性に大きな特徴がありますが、
その割には、このグランダンという人は、いちいち挙動が芝居がかっているのが何とも微笑ましい限りです。
よく、「神を欺けても、このジュール・ド・グランダンの目だけは欺けないぞ」みたいなことを口にしますが、
実はこれ、けっこう独り言であることが多いのです。
人目も憚らず感情の赴くままに、こういう挙動を取ることから、この人は熱しやすい激情家なのだということが、
説明をしなくても読者に伝わってきます。
登場人物の人間臭さと、鍛え抜かれた展開の早さで、ホラー以前に一つの娯楽小説として愉しめました。
ジョー・シュライバー「屍車」
![20070108195529[1]](http://blog-imgs-97.fc2.com/a/b/c/abc01784/2016120315002922d.jpg)
ジョー・シュライバー
集英社文庫
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原題は「CHASING THE DEAD」です(いい題名ですねえ)。
お話ですが、車を運転中のスー(スーザン)の携帯に、突然「娘を預かった」と誘拐犯からの着信がありまして、
誘拐犯の指示通りに方々へ車を走らせるうちに、次々と怪異に巻き込まれ…といった、
誘拐もの、ないしタイムリミットもののサスペンスに、ホラーの風味を和えた、題名通りの内容です。
サスペンスとホラーを足すという、おそらく初源の着想を成立させる為の、
整合性を持たせようとする苦心の跡が、そこかしこに窺えますが、むしろそれ故に多くのホラー作品が直面する
問題に正面衝突してしまった感があり、私は読んでいてそこが非常に面白いと感じました。
ホラー作品では、怪異に何らかの法則性が与えられることが多いと思います。
この小説の怪異にも明快な法則性があり、それは読むうちに明らかになるのですが、
この小説の場合、ホラーにサスペンスの要素を導入する為の理由付け、という側面が強過ぎるように思いました。
怪異に法則性を与えることには、以下の問題が付いて回ると思います。
果たしてその怪異は明らかにされた方が怖いのか、明らかにされない方が怖いのか、という問題です。
この問題にはそれぞれの人の見解や解釈、生理もあって、一様ではありませんが、
デ・ラ・メアの「朦朧法」の記述なども、この問題への、ある解答の一つのように思われます。
この小説の場合、怖いというよりも、何やら滔々とこじ付けを読まされているような気に…。
また、もう一つには、そもそも誘拐犯が主人公に電話であれこれ指示を出すのですが、
何だかやたらに饒舌で、怖い人がこんなに軽口ばかり叩いてていいんだろうか、というのが実に気になりました。
この小説はむしろ、「TAKING THE DEAD」という感じで、まあ喋ること喋ること!
こんな饒舌な怪物は却って珍しくて、いっそ面白いくらいです。
怪物は喋る方が怖いのか、無言の方が怖いのか、または襲ってくるのが怖いのか、じっとしているのが怖いのか…。
このことは、先の怪異の法則性に付随する、今一つの大きな問題のように思われます。
この辺りのことに、どーんと正面衝突したこの小説を読みながら、随分と考えさせられるものがありました。
作品自体は、展開が早く、描写も臨場感があって、地力は十分にある作家さんだと思います。
那智史郎 宮壁定雄編「ウィアード・テールズ3」
![20070108195529[1]](http://blog-imgs-97.fc2.com/a/b/c/abc01784/20161125003025d8e.jpg)
ニッツィン・ダイアリス他 那智史郎 宮壁定雄編
国書刊行会
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編者によりますと、第3巻は同誌の黄金時代前期(1930~1935年)の作品群を収録したもので、
前回紹介した第2巻は、興隆時代(1927~1929年)に当たるそうです。
さすが黄金時代、やっとお魚がぴちぴち元気にはぜてきたといいますか、活きのいい作品が揃って参りました。
巻頭のロバート・E・ハワード「はばたく悪鬼」から、いきなり修羅場の幕開けです!
この作品は冒険家ソロモン・ケインの冒険譚の一つで、辺境の地に巣食う蝙蝠人間とケインの攻防が描かれますが、
ケインの闘争本能が凄まじ過ぎて、蝙蝠人間の方が却って怯えを示す有り様です。
このハワードという人ですが、殊に闘争の場面になると、語り口が極度に高揚する人で、獣じみた獰猛さがあります。
このような、地金が剥き出しになった文章を持った人は、やはり作家として相当強いと改めて思わされました。
個人的に印象深かったのが、H・S・ホワイトヘッドの「悪霊夫人」です。
内容は全く題名通りなのですが、この作品は物事を語る順序が面白いです。
冒頭はこんな感じです。
西インド諸島の住民が腰蓑を付けていると誤解される事例→主人公が腰蓑を売り付けられそうになっている老婦人と知り合う→たまたま家が近所で仲良くなり、一家でトランプに興じる→夫人はやたらトランプが強く、普段はとても温厚な人なのに、トランプの時になると人格が豹変する(何だかおかしいな)…
こういう婉曲的な進め方も、着地点をあれこれ考えながら読む楽しみがあっていいですね。
個人的には、メタフィクション的な身辺雑記から話を始める、三津田信三の作品にも共通するような、
語りのプロセスの面白さを感じました。
また、アイデアの見事さでは、マリー・E・カウンセルマンの「三つの銅貨」が一歩抜きん出ていると思われます。
ジェイコブズの「猿の手」の変奏を思わせるような、人に幸運と不幸をもたらす三つの銅貨のお話です。
最後は、楽しみにしている連載作品、グレイ・ラ・スピナの「闇からの侵入者」ですが、
今回でようやく邪悪の正体が明らかになります(といっても、とっくにお察しが付くのはご愛敬ですが…)。
今回は主人公の叔母がお茶会に招かれると、居合わせた曰く付きのロシア令嬢に仕掛けられる心理戦が見どころで、
まるで学校の教室で、自分を嫌っている人間が主導権を握り、少しずつ肩身が狭くなっていく時のような、
現実でも身に覚えのありそうな、じんわりと嫌な感じが、実に上手く描けています。
この人も天性の物語作家だと思わせる、素朴ながら滑らかなな語り口を持った作家だと思いました。
鈴木晶 森田義信編「ニュー・ゴシック ポーの末裔たち」

鈴木晶 森田義信編
新潮社
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アンソロジーの魅力の一つに、作品選定の基準になるコンセプトが挙げられると思いますが、
この本のコンセプトは題名通りずばり、ニュー・ゴシックです。
じゃあ、そのニュー・ゴシックって一体何なのよ?という話になるのですが、
この本の提唱するニュー・ゴシックとは、本質的にはモダンホラーとほぼ同じで、
日常生活を送る上でふと覗く、裂け目のような闇を描いた小説を指すそうです。
モダンホラーは、不定形な闇に吸血鬼だの何だのと定型を与えることて、かえって読者を安堵させ、
ニュー・ゴシックは、逆に闇に形を与えず、闇をそのまま直視しようとする。とのことです。
ニュー・ゴシック自体の捕え方については、読んでいて「ああ、なるほどなぁ」と思いました。
ですが!この本の趣旨と選ばれた作品の間には、けっこうな乖離があるように私には思えました。
ジョイス・キャロル・オーツ、パトリック・マグラー、アイザック・B・シンガーなどは、この趣旨通りだと思いますが、
T・コラゲッサン・ボイル、ロバート・クーヴァー辺りのポストモダン作家の作品は、果たしてどうだったのかなと…。
また、別の見方では、ニュー・ゴシックというカテゴリを境界線ギリギリまで拡張することを試みた、
果敢な取り組みのアンソロジーである、とも言えると思います。
ホラー畑よりも、文学畑の人選が目立つアンソロジーになっています。
ルイス・オーキンクロウス、ウィリアム・ゴイエンといった作家のことを、私はこの本で初めて知りました。
パトリック・マグラーの「監禁」は、伝統的なゴシックを現代的に再構築して、人間の薄気味悪い暗部に迫った小説ですが、
この作品は一人称で書かれたことが、とても効果的だと思いました。
明らかに常軌を逸した人間の考えも、その当人の側から書くと、ごく当然の考えになってしまうわけでして。
そういう疑いを持たない人は実はどこにでもいて、読者の身近にもいるかも知れない…。そういう恐怖ですね。
ジョン・エドガー・ワイドマンという、これまた始めて知った作家の「熱病」という作品ですが、
時制も人称も横断した、随分ややこしいポストモダン小説で、私は読みながら何度か挫けそうになりましたが、
無闇にテンションの高い饒舌な文体は、読んでいるこちらが熱病に浮かされそうな迫力で、
頑張って読み終えた甲斐があったと、自分を(いや、作品を!)褒めたくなったのでした。
文学フリマ行ってきました
第23回文学フリマに行ってきました。
場所は東京流通センターの、第二展示場です。
体調が思わしくなかったので、2時間ほどで帰ってきました。
同人誌を始めたいという割りには、同人誌について全く明るくなかったので、
下調べも兼ねて、何冊かホラー系の同人誌を買ってきました。
私はできれば、自分が作品を発表したいと思う方なので、同人誌を立ち上げるまでの間、
既に活動されているサークルさんに参加できないか、と考えておりましたので、
気になったサークルさんに、「小説を書かせて戴けませんか?」と訊いたところ、無事、快諾を戴けました。
いきなり不躾な問い合わせだったにも関わらず、ありがとうございます。
とても緊張しましたが、声をかけてみて良かったです。これで当初の目的を果たせました。
以下が買った本です。
これからゆっくり読ませて戴きます。
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迷えるグリムの世界
狂った歯車堂
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テーマ別で同人誌を創刊されているようです。
今作のテーマは、グリム童話の新釈だそうです。
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迷い家通信 妖ノ章
迷い家
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ホラー専門誌(だったかな?記憶違いでしたらすみません)とのことです。
私如き後進の新参者からすると、非常に心強い限りです。
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イングルヌック 2016年 第2号
イングルヌック
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お二人で活動されているようです。
前作は即興で制作されて、話題を呼んだようです。
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ゆびさき怪談(青)
薄禍企画
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岩城裕明氏など、殆どの同人がプロデビューを果たしている(日本ホラー小説大賞受賞者多し!)サークルです。
内容は130文字の怪談集です。値段も100円と手頃でした。
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人体ホラー
開式堂
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人体の各部位を題材にしたアンソロジーです。
小説誌の創刊の他、フリーペーパーの発行も行っているそうです。
場所は東京流通センターの、第二展示場です。
体調が思わしくなかったので、2時間ほどで帰ってきました。
同人誌を始めたいという割りには、同人誌について全く明るくなかったので、
下調べも兼ねて、何冊かホラー系の同人誌を買ってきました。
私はできれば、自分が作品を発表したいと思う方なので、同人誌を立ち上げるまでの間、
既に活動されているサークルさんに参加できないか、と考えておりましたので、
気になったサークルさんに、「小説を書かせて戴けませんか?」と訊いたところ、無事、快諾を戴けました。
いきなり不躾な問い合わせだったにも関わらず、ありがとうございます。
とても緊張しましたが、声をかけてみて良かったです。これで当初の目的を果たせました。
以下が買った本です。
これからゆっくり読ませて戴きます。
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狂った歯車堂
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テーマ別で同人誌を創刊されているようです。
今作のテーマは、グリム童話の新釈だそうです。
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迷い家
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ホラー専門誌(だったかな?記憶違いでしたらすみません)とのことです。
私如き後進の新参者からすると、非常に心強い限りです。
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イングルヌック
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お二人で活動されているようです。
前作は即興で制作されて、話題を呼んだようです。
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薄禍企画
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岩城裕明氏など、殆どの同人がプロデビューを果たしている(日本ホラー小説大賞受賞者多し!)サークルです。
内容は130文字の怪談集です。値段も100円と手頃でした。
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開式堂
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人体の各部位を題材にしたアンソロジーです。
小説誌の創刊の他、フリーペーパーの発行も行っているそうです。