後ろ向きな登場人物たち
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ビル・プロンジーニ
創元推理文庫
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名無しの探偵シリーズで著名な、プロンジーニのこの小説ですが、これはホラーではなくサスペンスですね。
あまりジャンルの位置付けにこだわると収拾が付かなくなるので、これ以上は差し控えますが。
お話ですが、マルティグラの真っ最中のニューオーリンズを舞台に、ジルーという旅行者が、
身に覚えのない脅迫を受けたり、謎の仮面の男から尾行されたり、次第に追い詰められ…という内容です。
ネタバレになるので詳しく書けませんが、
まあ、それだけっちゃそれだけの、身も蓋もない話ですが(読んでない人にはさっぱりですね。すみません)、
それだけで長編を仕立て上げたプロンジーニはすごい、と見るべきなのか、何とも微妙なところですね。
ただし、プロンジーニは追い詰められた人間が陥った際の、ある種の譫妄状態を、
時にはその人間の感覚に潜り込むようにして、臨場感を持って描くのに長けていますので、
その手法が今作でも大いに活かされています。というか、それなしでは長編として持たなかった気もします。
実はそれよりも、読みながら気になったことがありまして、それはこの小説の主人公が、
何かというと自己憐憫に浸ってばかりで、自分では何も決断できない、極めて優柔不断な人間として描かれている点です。
途中から作品を引っ張るのは、途中で知り合った強い女性の方で、主人公は彼女の言うままに動くばかりです。
思えば、オプ(名無しの探偵)こそそういう人でした。著者と登場人物は同一人物ではないことは承知していますが、
こんな人物ばかり造形されると、プロンジーニ自身がそういう人なのでは、と思わず勘繰りたくもなってきます。
たいてい、こういう人間は何かと昔のことを振り返る癖があって、憐憫の開陳がしつこいんですね。
ところが、まだ上には上がいました。その作品がこちら。
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![20070108195529[1]](http://blog-imgs-97.fc2.com/a/b/c/abc01784/20161218194016886.jpg)
チャールズ・L・グラント
ハヤカワ文庫NV
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モダンホラーの「雰囲気派」こと、チャールズ・L・グラントの長編ホラーです(今度はホラーです。良かった)。
曰く付きの旧館に謎の買い手が付いて以降、街全体に怪異が続発するという、スティーブン・キングの「呪われた街」以降、
モダンホラーの一典型となった、「街もの」(こんな言い方があるのか、私は知りませんが)の小説です。
解説によるとグラントも、「呪われた街」に強い影響を受け、七度読み返したとのことですが、
さすがに「呪われた街」と比べると、作家としての地力の差が、如実に露呈している感はどうしても否めません。
「街もの」の典型的な流れとしましては、まず舞台となる街やそこに住む人を丹念に描くことで、
作品に現実感を与えておいて、次に街を覆う怪異の浸食を、多視点で頻発して描く、というものです。
この点、この作品も見事に、「呪われた街」のパターンを踏襲しています。館に買い手が付く点も全く同じです。
で、この小説ですが、決して悪い作品ではないと思います。
グラントという人は、地味で展開に乏しいとよく批判されますが、それはある種、「雰囲気派」の宿命でもありますし、
それに、読むとちゃんと、「こと」は随時起こっています。決して雰囲気ばかりに筆を費やしているわけでもありません。
という小説の概要から、いきなり先の、後ろ向きな登場人物の件に話を戻しますが、
この小説でも一番際立っていると思ったのが、主要な人物たちの後ろ向きな言動の数々でした。
「マスク」では、憐憫に浸るのはまだ主人公だけでしたし、憐憫も内面描写に留まって(思うだけの状態で)いたはずです。
「マスク」の主人公がそういう人物造形だったのは、これもネタバレの為に詳しく書けませんが、
百歩譲って、作品の展開を鑑みて、そういう性格を与える必要があったから、と見なすことも可能です。
ところが、「ティー・パーティー」のそれは、もう作品の展開とは何の関係もありません。
こちらは、主要人物の何人かが等しくそういう性格である上に、部屋で「しっかりしろ!」といきなり自分を叱咤したり、
自己卑下が極まって誰もいないのに、照れ隠しじみた笑顔を浮かべたりなど、実際に寒々しい振る舞いに及びます。
こんなことをされると、読んでいるこちらがいたたまれなくなって、気恥ずかしさに身悶えしたくなります。
かといって、モーリス・ルヴェルの小説の孤独な人物たちみたいに、寒い冬の部屋で家具の角に足の小指をぶつけ、
誰もいないのに芝居がかった感じで、「おお、痛たた」などと口にする、あの身を切るような寂寥感もありません。
こう考えると、孤独と自己卑下では、似て非なる印象があります。自己卑下は、読者の嫌なツボを妙に刺激しますね。
何故彼らは好き好んで、登場人物にこういう性格を与えるのか?こればかりは、本人に聞く以外に分かりようがありません。
ただ、いくら明快な物語性を持った作品であっても、創作者の生理から湧き出たものである以上、
多くの小説には、このような、説明の付けようのない部分が潜んでいるように思われますし、
今の私が読んで面白いと思うのも、そういう創作者の生理が、生の形で小説に表れた部分だったりします。
というわけで、この項、結論はありません(すみません!)。
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