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長編ホラー小説のマルチタスク化

 たまたまディーン・R・クーンツのホラー小説を読んでいたら、以前から薄々問題視していたことが一挙に顕在化されたので、とりあえず、それを「クーンツ問題」とします。
 クーンツ問題といってもそれがクーンツ固有の問題でもなければ、別にクーンツの名を冠する必要もないのでクーンツ誹謗の意図もないのですが、面白がってそう呼んでみました。 このことは長編ホラー小説全般の影に、常に付き纏う問題だと思います。
 その何が、どう問題かと思うのかはおいおい述べるとして、まずはたまたま私が問題を意識した小説の、簡単な所見を述べたいと思います。
 この小説です。


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20070108195529[1] 悪魔は夜はばたく
 ディーン・R・クーンツ
 創元推理文庫






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 この小説は、所謂クーンツの試金石的な一作として知られているようです。
 クーンツに疎いので解説を鵜呑みにしますと、1960年代後期に作家デビュー後、ありとあらゆるジャンルを怒涛のペースで書き続けたクーンツが、後の代名詞ともなる、ジャンルミックスとしてのホラー小説を確立させた一作だそうです。アメリカでの刊行が1977年。それを四十年以上経って初めて読んだのですが、それには読んで納得しました。
 クーンツにとって試金石的な一作であることは勿論、方法論的にはおそらく英米のホラー小説においても、一つの潮流に至る一作のように見受けられました。
 本書に遡ること2年前、先んじてスティーヴン・キングが「呪われた町」で、米国モダンホラー長編の定型を築いておりますが、キングが三人称他視点を用いて、舞台意匠や場面転換に劇的な能動性を与えたことは行っても、他ジャンルの定型を貪欲に取り込むことまではしませんでした。この作品でクーンツが行ったことはただ一点、ホラー小説の意匠の中にフーダニットを持ち込んだことでした。これを持ち込むことで、広くミステリ全般の要素をホラーに吸収する、ホラー小説における画期的な方法論を確立されました。
 この方法論の確立の後、本人は勿論、他の小説家も寄ってたかってこの方法論の発展に尽くし、後の長編モダンホラーの一大勢力が築かれる訳ですが、その詳細はここでは割愛します。

 で、小説の祖筋ですが、女性霊能力者と連続殺人鬼の鬼気迫る攻防劇です。
 主人公の霊能者は、度々殺人鬼の引き起こす殺人の瞬間を幻視します。夫や協力者と犯人捜しに奔走します。ポルターガイストまで起きます。幻視を辿るうちに霊能者は、封印してきた自らの”忌まわしい過去”にも次第に直面させられます。伏線やミスディレクションも作中に手並み鮮やかに配置され、犯人は一体誰なのか、とついページを繰る手付きも早まり――と、実際面白いのですが、この面白さは完全にミステリとしての面白さで、ホラーの面白さではありません。 この小説では、提示された謎、伏線は全て綺麗に回収されます。確かに鮮やかです。しかし、全てが明るみの元に晒された後、ホラーとしての不穏さ、尾を引く感じは微塵も残りません。清掃された舗装路のように整然として、何もありません、何もです。
 怖さよりも面白さが勝つこと、しかもその方が読者への訴求力が強く、圧倒的に勝ってしまうこと。長編モダンホラーの問題は、まさにこれです。
 そして、この問題は、派生するもう一つの問題に行き着きます。怪奇小説における金言の一つに、「怖い小説は短編に限る」という言説がありますが、長編でも恐怖を持続できるのか、という問題です。
 と、こういう小説が、まずありました。次の小説です。


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20070108195529[1] 死の影
 倉阪鬼一郎
 廣済堂文庫






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 この小説は、小説家の井上雅彦が編纂した、国産超大作アンソロジーシリーズ「異形コレクション」の、書下ろし長編限定の関連企画、「異形招待席」の第1作目に当たります。「異形招待席」は短命な企画で、3作で幕を閉じました。残念なことです。
 最近は、企画区切りで集中的に読書をしてまして(特に意味はありません)、「異形招待席」シリーズを続けて読みました。すると、自分では意図もしていないのに、奇しくも先のクーンツ問題に正面衝突する作品ばかりが続いたことがとても面白く、以下、同シリーズの所見を羅列します。

 この小説については、著者あとがきの概要から始めます。
 怖い話は短編に限ると言われるが、それは一応正論で、超常現象に起因する恐怖は長続きしないから、面白いホラー長編はたくさんあっても、怖い長編は存外少ない。例外たる先駆的作品として、小池真理子の「墓地を見下ろす家」があり、どうすればそれを超えられるかを念頭に置いて書かれた。そうあります。
 ここで言及されていたのは、まさにクーンツ問題そのものです。あとがきを読んだ印象は、あ、ここにも同じ考えの人がいたんだ、という素直な感慨でした。範を置く小説が、「墓地を見下ろす家」であることも、実に合点がいきました。「墓地を見下ろす家」は個人的にも、例外的に怖い小説の一作だと思います。因みに同じ著者の「死者はまどろむ」も同じく、怖い長編ホラーの傑作です。ご興味のある方がいましたら、一読をお薦めします。
 話を戻しますと、倉阪鬼一郎についてはその数日前に、「首のない鳥」という別の長編ホラー小説を読んでおり、それがあまりに鬼畜である極点に達した小説だと思えた為、大いに期待して嘗めるように読みましたが、そこで直面したのは、また別種の長編ホラー小説における問題でした。

 また、あとがきに戻りますと、マンションが舞台である「墓地~」に倣って、舞台をマンションにしたそうです。まず、舞台をある限定された空間に設定したということです。こちらのマンションは、ある宗教団体の運営するマンションで、四階の渡り廊下で、隣りの同じ団体が母体の幼稚園にも繋がってますが、ただ、その四階は扉が塞がって行けないのです。
 このような限定下で、ある種ストイックに恐怖を追求するのかと思えば、ここで著者が選択した方法が、様々な恐怖をこのマンションに詰め込むという、ジャンルではなく、恐怖の質的なマルチタスク化でした。心霊、殺人鬼、悪魔崇拝など、実に色々な種類の恐怖を一つの舞台に(いささか強引に)押し込んだ結果、作中に登場するサイコパスの造形が強烈過ぎて、恐怖の相乗効果を生むどころか、他の恐怖が全て駆逐されたというのが、率直な私の感想でした。
 これは以前、このブログでも挙げた、「ナイスヴィル」という小説でも思ったことですが、異なる種類の恐怖を作中で競い合わせると、たいていはより即物的で、より現実的な恐怖の印象が勝ってしまうことが、この方法の大きな問題です。
 結局は、幾ら恐怖のパターンを羅列しても、最後に手元に残る恐怖はただ一つ、ということです。あれもこれもという訳には、なかなかいきません。
 この小説に関する限り、やはり全体的な印象として、やはり怖さよりも面白さが勝ってしまった印象があります。その象徴的場面として、マンションの渡り廊下で、先のサイコパスと亡霊が一対一で対決するという珍妙な場面がありますが、もうこうなるとどちらに対して怖がって良いのか、読む方も的を絞れない印象を拭えません。

 クーンツは1977年当時、おそらく自覚的にジャンルミックスの方向性に舵を振った(面白さを優先させた)と思いますが、この小説の著者はあとがきにもあるように、クーンツ問題を打破する明確な意図の元でこの小説を書いている訳ですから、そういう意味では明らかに方法論の選択を誤っているとうに私には思えました。個人的には、先達の通過した道程を辿ることで勉強にもなり、有意義な読書体験でした。
 続けて、「異形招待席」2作目です。


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20070108195529[1] リアルヘヴンへようこそ
 牧野修
 廣済堂文庫





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 この本も著者あとがきの孫引きから始めます。著者が先の「死の影」同様、明確な意図を以て執筆に臨んだことが綿々と記されています。
 何としてでも怖がらせたい。しかし恐怖の対象は各人異なるので、生理的恐怖、心理的恐怖、現実的恐怖、超心理的恐怖、あらゆる恐怖を一冊に込めた。
 米国の恐怖小説は、舞台として容易に閉鎖された街を作れるが、国土の狭い日本では山村になり、できれば近代的な街並みが望ましい。そこで山奥を切り開き、僅かな道路以外には辿れないような孤立下にある、近代化された街を造形した。
 また、超常現象は説明が為されないことこそが怖いが、自身の性格からどうしても説明をしたくなってしまう、故に説明することでより恐怖が増すようなロジックを考えた。
 最後に、評論家である風間賢二の、「(ホラー小説は)ただ読者が戦慄する効果のみを狙った、いわば潔い小説でなければならない」という引用で締め括ります。

 このあとがきに関する限り、ホラー長編における執筆意図としては、本当に申し分ないものだと思います。何よりも焦点を恐怖に絞っている点が実に素晴らしい。
 ありとあらゆる恐怖を作中で提示する以上、一人称の体裁はあり得ません。三人称他視点で描くことを当初から念頭に置いた、この「閉ざされた街」の造形の論理も、個人的にも非常に納得のできる方向性だと思います。街をど田舎にしたくなかったのは、小説から土着色を排除したかったからで、ここで著者が英米のモダンホラーの枠組みを想定していることがはっきりと窺えます。
 怪異にオチを付ける危険性も、基本的には著者の言う通りだと私も思います。怪異が怖いのは、何よりもそれが不可解で説明のしようがないからです。オチが付くということは、基本的には恐怖の消失を意味します。それを分かった上で、さらにそれを超える論理を想像しようという、著者の鼻息の荒さが伝わってくる宣言です。

 作品の概要ですが、主人公は虐めに遭い、強い疎外感を抱える中学生の少年です。彼は学校の人間関係や家族よりも、山奥に囲まれたこの街に生息する浮浪者に強いシンパシーを感じ、浮浪者の生態のレポートサイトを立ち上げています。浮浪者とコンタクトする彼は、その一人から、「エヌ」の存在を聞かされます。「エヌ」とは怖いもので、エヌについて尋ねると、それは「エヌ」だから言いようがないと言われます。遠方の浮浪者たちも、「エヌ」絡みか、徐々にこの街に接近してきます。その頃、街には不吉な都市伝説が蔓延し、次第に住人たちも怪異に囚われていきます。
 これは典型的な英米の長編モダンホラーのノリで、途中から堰を切ったようにゾンビや怪物がばんばん登場してきます。最後は主人公や浮浪者たちが、街を覆う怪異と対峙するという、まさにキングやクーンツそのものといった展開を迎えます。こうなるともはや恐怖は望めず、個人的には中盤辺りでゾンビが出始めた時点で、怖さよりも面白さを感じました。小説は、先の「死の影」をよりグロく、スケールアップさせた印象で、「死の影」とほぼ同じ理由で意図を踏み外していると私には映りました。
 やはり、作中に雑多な恐怖を詰め込む方法は、読者の恐怖を喚起しません。続けて2作も同傾向の小説を読んだことで、マルチタスク的に恐怖を詰め込む方法は、方法論として誤っているという明快な結果を得たと私は思いました。
 とすると、別の方法論から恐怖に迫る他ない訳ですが、その前にいい機会なので、いささか閑話休題的な扱いにはなりますが、「異形招待席」の3作目もここで触れておきます。


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20070108195529[1] 廃流
 斎藤肇
 廣済堂文庫






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「異形招待席」最後の3作目ですが、個人的にはこの小説が一番面白いと思いました。
 前2作が直球のホラーだった為、今作では変化球を目指したと、著者あとがきにもあるように、気負いが感じられた前2作に比べて、著者がやりたいことをのびのびと書いたことが伝わってきて、面白く読みました。
 それは言い換えれば、ストイックに恐怖のみを追求しないことを示しています。今回は恐怖を追求するホラー小説について、ああだこうだ批判めいたことを書いていますが、勿論全てのホラー小説が一途に恐怖のみを追求するものではないことも分かりますし、面白いホラー小説を読むのは好きです。何せ好きなのが、「ウィアード・テイルズ」ですから。
 
 作品は、主人公が少年の頃に、ある一軒家での少女との邂逅の場面から始まります。緑の光に包まれ、パネルのような板から上半身を生やした、実体定かならぬ少女との邂逅は、その後も主人公の記憶に郷愁と共に深く刻まれますが、主人公の住む街では、やがて犠牲者の身体の一部が綺麗に剥ぎ取られる事件が頻発します。その事件は、少年の頃の主人公の記憶と深く繋がっているのでした。
 作品の基調は冒頭にあるような、甘酸っぱい郷愁を含んだリリカルなムードですが、途中から怪獣映画並みの大風呂敷な展開に転じるところに、予想の斜め上を行くような目を惹く面白さがありました。中盤以降、登場するなり次々と犠牲になっていく、所謂「死に役」の描写が延々と羅列される辺りから、一気に作品がドライブします。この雪だるま式に被害が拡がる一連の描写は、目で文字を追っていて心躍る瞬間でした。

 この辺りの描写の解放感は、ここで作品がリアリズムの壁から抜けて一歩先に行ったことに繋がっていますが、小説の中のリアリズムの逸脱にも、色々やり方があると思います。この小説に関しては、途中までは一応リアリズムの範疇に留まっていたことが、後の飛躍を体感させますが、最初からリアリズムを逸脱する手法も当然あり、そうなると受ける印象もまた違ったものになります。
 作中におけるリアリズムとの距離感はホラーに限らず、小説全般に跨る大きな問題ですが、真摯に恐怖を追求する長編ホラー小説であれば、都度都度の時代で要請される「常識」観の大きな壁は、否応もなく避けては通れないものだと思います。そこを通過しないと、超常現象を介した恐怖が読者に訪れてくれません(短編はこの限りではないと思います)。
 この小説全般から感じられる軽やかさは、常識の壁との正面衝突を軽くいなしたことにあると思います。一つ、リアリズムを軽くかわす方法として、厳密な描写を避けて軽い筆致で描く方法があります。、著者のあまりギチギチに書き込まない筆遣いが、今作に関しては作品と上手く一致した印象がありました。
 相対的には淡泊な筆致ですが、中身は結構執拗でエグいという、なかなか面白い印象の残る小説だったと思います。


 また本題に戻りますが、ここから先は現時点での仮設です。ここで倉阪鬼一郎が規範にした、「墓地を見下ろす家」について考えるのは面白いと思います。
 あの小説が何故怖かったかといえば、亡霊の巣食うマンションという、恐怖の対象をただ一点に絞ったことは、要因として大きいと思います。何かのジャンルがミックスされたり、異なる恐怖が一つの作品に詰め込まれると、たいてい恐怖の源泉が相殺されることとから推察されるのは、(超常現象を介した)恐怖は殊の外繊細で、他の要素の干渉に極めて脆い性質がある、ということです。この小説では幽霊の恐怖以外に何もない為、読者の気が他に逸れることがありません。もしこの小説で仮に、一方隣人は極度のサイコパスで、とやったりすると、同じ二の轍を踏むことになると思います。
 そこから先は、小説を引っ張る著者の筆力が大きくものを言うと思いますが、この小説の描写の臨場感は本当にすごいです。作中の人間の体感や恐怖が、ひしひしと読んでいるこちらにも伝わってきます。この描写力を最大限に発揮するお膳立ての一つとして恐怖の対象を絞るのは、消去法的な選択肢と捉えられかねませんが、確実に効果はあります。
 また、恐怖の対象が幽霊であったことも、確実に効果があります。これこそ完全な私見ですが、対象として吸血鬼、宇宙人はまだありかなと思いますが、ゾンビ、怪物などになるとなかなか厳しく思います。私が恐怖の対象の線引きの基準にしているのは、何処かでその恐怖を飛躍させればリアルとして受け止められる(或いは描ける)余地があると思えるかどうかです。ゾンビ、怪物になると、幾ら描写に優れていても、全く自分のリアルなり生活感の中にはないもの対象だから、怖く思いようがないということだと思います。仮に対象に怪物を選ぶ場合、私でしたら基本的に恐怖とは別の面白さを狙います。
 比較的多くの日本人にとって、身近に恐怖を感じられる様式に怪談があると思いますが、怪談に吸血鬼や怪物の話は殆ど出てきません。もしそれらの対象が高確率で恐怖を喚起するものなら、確実にそういう怪談がより広まっていたはずです。
 
 三津田信三が特に好きな怪奇小説家として、M・R・ジェイムズと岡本綺堂を挙げているのには、非常に納得できるものがあります。この三者は、題材から方法論に至るまでほぼそれを逸脱しないという、ストイシズムを貫徹しています。何故彼らがそうするのかといえば、恐怖へと至る対象や作法の間口の狭さと、それが効果的であることを知悉しているからだと思います。逆に言えば、ストイックな路線でこの三者に迫るのも相当に険しいと思いますし、そのようなストイシズムの効果を知りながら、また何か別の方法を模索するより他にない、というのが現時点で考えていることです。
 それについて、今の私が具体的に語る材料は何ら持ち合わせていないのですが、考えるにも自分なりの基準が必要だと思います。私の場合、それが我がこととして感じられるかどうかになると思います。四十を過ぎて、以前よりは死が身近になってきましたが、最終的には我が身に訪れる現実の死と、それが形象化された恐怖の対象の間に跨る何かに、ストイシズムとは異なる恐怖を喚起する余地があるのかも知れません。
 いずれにしてもこの問題は、「異形招待席」が発行された今から19年前(!)、既に実作者たちによって実地検証の段階にまで入っていたことを考えると、何やら隔世の感に囚われます。

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