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ジョン・コリアー他「怪奇小説傑作集2」

20070108195529[1] 怪奇小説傑作集2
 ジョン・コリアー他 
 創元推理文庫






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この分野の登竜門とか、マスターピースとの誉れ高い、名アンソロジーの第2巻です。
第1巻は、19世英国の、伝統的な怪奇小説を中心としたラインナップでしたが、
第2巻は、英米(といっても、依然英国中心ですが)の、20世紀中期までの、モダンホラー集になっています。

伝統的な怪奇小説と、モダンホラーの主な違いにつきましては、巻末の解説で、平井呈一が見事に要約していますが、
ゴシック小説の様式から発展し、日常とは異なる空間や道具立てを設定し、そこで恐怖が訪れる怪奇小説に比べて、
日常生活のさなかに、切れ目を入れるように、いきなり恐怖を捻じ込む、というのがモダンホラーの主な手法だそうです。

実際に、第1巻と第2巻を読み比べますと、かなり異なった印象を受けるように思います。
第1巻は、その空間とか磁場の描写に力点が籠るせいか、全体として、重苦しく堂々たる印象を受けますが、
第2巻は、ふとした日常がふいに変転するソリッドさや、重苦しさの対極にあるような、婉曲的な軽やかさを感じます。

第2巻の中でも、F・M・クロフォードの「泣きさけぶどくろ」、フレデリック・マリヤットの「人狼」は、伝統的な怪奇小説で、
一冊の中でも両者の違いがよく分かる、素晴らしいセレクションになっています。
この2作を、モダンホラーの中から仰ぎ見ると、却って新鮮で、今の時代でこれを真似ても、成立しないんだろうなあ、
と何やら隔世の感を感じます。恐怖は、どの時代にあっても、時代に即した一過性のもので、後年幾ら真似ようとしても、
決してそのムードまでは再現し切れない、という大事な特性を、この2作が伝えてくれるように思われます。
どちらも、濃厚でムードたっぷりで、これもまた素晴らしいんですよね。

今回も全ての作品は挙げられませんが、私見では、とにかくサキの「スレドニ・ヴァシュタール」が刺さりました。
この小説は、作品全体がソリッドどころか、一文一文のレベルまでソリッドで、半端ではない切れ味の鋭さです。
後半、主人公の少年が、祈禱(というか呪詛)の誦句を唱え出すくだりなどは、文章の構築美の極みとも言うべきすごさで、
怖い以前に、何てカッコいい小説なんだ、と私は読みながら唸りました。いや、ほんと素晴らしいです。

その分、典型的な、モダンな怖さを堪能させてくれるのが、L・P・ハートリイの「ポドロ島」です。
お話は、船乗りして、題名にある孤島にピクニックに行くだけの、他愛のない出だしなのですが、
猫に餌をやろうと苦戦していた女性が、ふと「つかまえられなければ、殺してやるわ」と呟く辺りから、
徐々に怖さを増す婉曲表現が見事で、これを読むと確かに19世紀から、恐怖の様態は変わったのだと、痛感させられます。
ジョン・コリアーの「みどりの想い」は植物怪談の名作ですが、途中で視点が入れ替わる辺りに、妙なおかしみを感じさせる、
これもまた軽快さといった、モダンの特徴を感じさせる一作だと思います。

単に軽快さということで言えば、ヘンリイ・カットナーの「住宅問題」とか、ベン・ヘクトの「恋がたき」など、
米国の作家の作品の方が勝っているようですが、この頃の米国は既に各パルプ誌が、ジャンルの凌ぎを削る、
独自の文化様式を築いていた頃でもあり、そのせいか、純粋なホラーに留まらず、ファンタジーやSFなど、
ジャンルを横断する、「奇妙な味」といったテイストが、英国の作品に比べると強いように思われます。
私は自身が、「ウィアード・テイルズ」が好きなのにも関わらず、少なくともこのアンソロジーでは、
より繊細な婉曲表現に冴えを見せる、英国の作品の方が、深みがあり、読み応えもあったように感じました。
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スティーヴン・キング「呪われた街」(上下巻)

20070108195529[1]20070108195529[1] 呪われた街(上下巻)  
 スティーヴン・キング 
 集英社文庫






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前回の、ブラム・ストーカーの「吸血鬼ドラキュラ」の記事の最後に少し記しました、
今一つの吸血鬼小説の決定打は、何といってもこの小説だと私は思います。
この小説は、吸血鬼小説の決定打であるだけではなく、モダンホラーの一定型を確立させた、記念碑的作品だと思います。
この小説のことはどれだけ褒めても褒め足りないほど、作品も素晴らしく、後世に遺した影響も絶大だと思います。

「吸血鬼ドラキュラ」から、「呪われた街」までは、約100年の開きがあり、その間に吸血鬼やドラキュラは、
誰もが知るところとなり、下手をするとパロディにしかならない状況であることは、誰もが把握していたと思いますし、
賢明な作家なら、吸血鬼を新釈を与えるなど、吸血鬼のパターン拡張の方に向かうところを、
ただ一人、キングだけが、本気で「吸血鬼ドラキュラ」に、真っ向勝負を挑んだのではないでしょうか?
(他にもそのような作品があったら、寡聞にして恐縮ですが…)
「吸血鬼ドラキュラ」に倣って、キングがこの小説で果たそうとしたことは、ガチで怖い吸血鬼の復権という、
その一点に尽きると思います。

で、この小説の吸血鬼ですが、本気で怖いです!
怖いのは、吸血鬼が凶行に及ぶ瞬間ではなく、そこに吸血鬼がいる…、という、この世ならぬものすごい瘴気です。
特に、二階に吸血鬼がいるのに、十字架を握りしめたまま、怖すぎて階段を登れない教師のくだりなど、
教師の恐怖感が、読んでいるこちらにも嫌というほど伝わってきます。何というキングの筆力!

突然ですが、フィクションでの怖さは、なるべく(主観や考え方などの)個人差が少ない方がいいと思うのです。
万人を怖がらせるのは不可能だとしても、最大公約数的に怖がらせられれば、それは成功している、という考えです。
この小説の吸血鬼が怖いのは、登場人物の怖がり方が、尋常ではないほどリアルだからです。
密閉下でパニックが伝播するように、恐怖も上手く描ければ、それはちゃんと伝播すると、私は信じたいです。
そういった意味でこの小説は、フィクションでできる怖さが、正当な手順で、ほぼ完璧に描かれていると思います。

そして、その恐怖をリアルなものにする為に、キングが取った手法は様々にありますが(固有名詞の氾濫など)、
中でも、最も効果的で、魅力的な方法が、現代(といっても、今からもう40年以上前ですが)の、
アメリカの南西部の田舎町に、吸血鬼を引っ張り出してくることで、これで、一つの田舎町が吸血鬼に侵略されて、
人知れず崩壊する…という、ホラーの舞台設定としては、これ以上ないほど魅力的な舞台装置を作りました。
また、これを何人かの主要人物はいるものの、三人称多視点で描いたことが、また効果抜群だったと思います。

平井呈一が、モダンホラーについて、「現実にいきなり異世界の裂け目を作る」と評したことがありましたが、
極めてリアルに描かれた田舎町を浸食する吸血鬼とは、異世界の裂け目の最たるものだと思います。
実は私は、キングの最大の功績は、怪異で滅ぶ街という、モダンホラーの一定型を確立させたことだと思います。

「吸血鬼ドラキュラ」に真っ向勝負を挑む決意と、それを成立させる地力は、誰もが持てるものではないと思いますが、
吸血鬼ではない、オリジナルの怪異で、一つの街を滅ぼすことなら、自分にもできるかも知れない…。
キングの意図かどうかは別としても、後進のホラー作家たちに与えた希望もまた、非常に大きかったように思います。
私は個人的には、クトゥルーもののフォローを読むなら、滅ぶ街の作品の方が読みたいですし、
自分でもいつか書けたらなあ…と、今でも、夢見るような気持ちで思うことがあります。

また、昔は、古い吸血鬼映画などを見ていますと、とっくに原因が吸血鬼だと分かっているのに、
ああだこうだと原因を推測する、長いくだりがよくあって、それには半ば閉口していたことがありましたが、
この作品を読んで、いや、それは(作品によっては)やはり必要なんだ、と考えが変わりました。
こういうことは、とても地味なことですので、さほど印象に残らず、看過されがちな部分でもあるかと思いますが、
先にも述べた通り、この作品が書かれた時点で、既に吸血鬼は扱い次第で、パロディにしかならなかったわけで、
吸血鬼の実在を保障する為に、人物たちの「そんな馬鹿な、信じられない」という、常識の大きな壁との対立は、
私は、本気で恐怖を求める作品であればあるほど、避けては通れない手続き、みたいなものだと思います。
このことは、街の被害が甚大になれば、医学的措置や、警察の介入が避けて通れないのと同様に、
作品におけるリアルを、根底で支える部分になると思います。この小説も、勿論その点は丹念に描かれています。

ただ闇雲に「吸血鬼ドラキュラ」に挑むのではなく、様々なアイデアと、キング自身の資質が噛み合ったこの作品は、
下手をしたら、「吸血鬼ドラキュラ」以上に、後進にとっての、吸血鬼小説の高い壁になったようですし、
かのクーンツも、どこかで、「呪われた街」に挑むのは、賢明ではない」と述べていたようでした。
ところが…。この小説から30年近く経って、今度はアメリカでもイギリスでもなく、何と、我が国(!)から、
更なる超弩級の吸血鬼小説が出るのですが、この本、あまりにぶ厚くて、読み直すのに時間がかかりますので、
また機会があれば、後述したいと思います。







ブラム・ストーカー「吸血鬼ドラキュラ」

20070108195529[1] 吸血鬼ドラキュラ 
 ブラム・ストーカー
 創元推理文庫






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ホラーといえば吸血鬼!
…かどうかは分かりませんが、改めて読み直しました。お話はあまりに有名ですので割愛します。

吸血鬼といえばこの作品以前にも、レ・ファニュの「吸血鬼カーミラ」や、ジョン・ポリドリの「吸血鬼」など、
前例は既にあったわけですが、この小説がそれらの前例を越えて、何故吸血鬼小説の決定打になったかついては、
様々な要因があると思いますが、何よりの要因は、作者の本気度の高さにあったのではないか、と私は思いました。

吸血鬼は血を吸い、感染するなどの特性から、性的なものも含め、様々なメタファーを付与できますが、
根本にあるのはあくまで、それが死を侵犯し、周囲に死をもたらす禁忌に塗れた存在、という点にあったはずです。
吸血鬼は本気で怖いのだと確信し、この禁忌に抵触する恐怖、即ち、自分が生きながらにして死に穢される恐怖を、
ここまで骨太に、かつ仔細に描いた作品が他になかったから、この小説が、吸血鬼小説の決定打になったと思うのです。

実際、改めて読みながら、この小説での吸血鬼の存在は徹底して忌わしく、21世紀の今にも通じる、というレベルを越えて、
本気(殺気といってもいいと思いますが)で描かれたホラーは怖い、という真理を読者に伝えてくれます。

私が考えるホラー小説の妙味とは、馬鹿馬鹿しいと思いながらも読み進めるうちに、作者の迫真の筆遣いに引き込まれ、
「くだんねえ。しかし、ひょっとすると、もしや…」と、読者がそこに描かれた世界を、一瞬でもリアルに感じる、
その瞬間にあると思いますが、この点も、この小説は周到かつ念入りです。

読者がその作品をリアルに感じるには、まず、作中の人物が、それを信じる必要があります。
そこで、かのヴァン・ヘルシング教授が登場し、何人かの協力者に、吸血鬼を信じさせるよう延々と説得します。
読者に、19世紀時点で、既に十分に科学的で懐疑的な人物たちが、吸血鬼を信じざるを得なくなる過程を見せて、
その世界に対してのリアルさを、徐々に獲得させていく、という周到な戦略が、随所に用いられています。
恋人を救う為に、死体に杭を打たなければならないアーサーの苦しみと、それを伝えるヘルシングの苦悩は、
人間ドラマとしても、ある極点に達しており、この辺りの展開は素晴らしいとしか、言いようがありません。

また、この小説は、速記や、当時の先端技術(?)だった蠟管録音による口述日記なども用いた、
複数の人間の手記の寄せ集めから構成されています。これが作中にリアルさを与える為の選択だったことは、
まず間違いないと思うのですが、読みながら一つ気になることがありまして、特に後半に顕著なのですが、
どの人間も手記を執筆しながら、可能な限り正確に事態を記述することに、取り憑かれたように拘り出す点です。
文字通り、彼らは寝食すら忘れて、正確な記述に没頭し始めます。しかも執筆する全員が。
確かに、後半は吸血鬼との追跡劇の様相を呈してきますので、吸血鬼の行動を予測する為にも、
作劇としても、正確な記述は一応必須となっているのですが、それにしても鬼気迫る正確さへの拘りぶりで、
まるで吸血鬼よりも、記述において正確さを欠く方が恐ろしい、とでも言わんばかりです。

このオブセッションは、一体何なのでしょう?どの人物も等しく、その考えに支配されていることを考えると、
これはもはや作中の人物の考えではなく、作者本人の考えと見るべきでしょう。
勿論、私如きに真相など分かるわけもありませんが、このことについて、私はこう想像してみました。

作者は何年もアイデアを温め、ルーマニアの串刺し公をモチーフにするなど、入念に作品を練ってきたわけですが、
それでも、本当に吸血鬼の存在を、読者がリアルに感じてくれるか、そこに大きな不安が付きまとっていたと思うのです。
聡明な作者は、読者が吸血鬼の存在をリアルに感じるか、この小説が成功するか否かは、
そこにかかっていることを、知っていたと思うのです。
読者にリアルを感じさせる為に、作者が選んだ手法が、「正確な記述」にあったのではないか?
正確な記述へのオブセッションは、実は作者自身のオブセッションだったのではないか?これが私の想像です。

血液型を無視した輸血などは、今となっては陳腐化した科学的アプローチですが、作者は吸血鬼に信憑性を与える為に、
手記を用いたドキュメンタリータッチ、科学的見地、民俗学的見地など、およそ考え付く限りのあらゆる方法で、
吸血鬼のリアルさを、作品の中に実際に希求しています。

吸血鬼は絶対に怖いという本気さと、それを保障する為の、数々の周到な仕掛け。
これらが渾然一体となって、作品を読み進める読者に襲いかかってくるからこそ、
この小説は、吸血鬼小説の決定版になり得たのではないか、というのが、私が今回読み直して思ったことでした。
ところが…。この小説から100年近くを経て、今度はアメリカから今一つの、吸血鬼小説の決定打が登場します。
その作品については、また折を見て後述したいと思います。
プロフィール

WORLD BEANS

Author:WORLD BEANS
ホラー小説専門同人誌、
「DAMMED THING」告知用ブログです。
活動状況はほぼ更新せず、大半は読んだホラー小説のことを、ぶつくさ書いてます。
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