那智史郎 宮壁定雄編「ウィアード・テールズ4」
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ヘンリー・カットナー他 那智史郎 宮壁定雄編
国書刊行会
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この第4巻は、黄金時代後期(1936年~1939年)の作品を収録したとのことですが、
あれ?また全体的にB級度が増した印象が…。
巻頭のロバート・ブロックの「暗黒神の神殿」からして、隠されたナイアルラトホテップの神殿には、人類の未来が壁画で!
と、派手に風呂敷を広げた割りには、この素朴な終わり方…。初期ブロックらしいB級作品です。
原形質の怪物を扱った、ソープ・マックラスキーの「しのびよる恐怖」では、
怪物を退治するには、怪物に取り込まれた時に、意志を強く持つことだとされるのですが、
この退治法は、フランク・ベルナップ・ロングの「千の足を持つ男」でも使われておりました。
細胞の塊に過ぎない原形質に、何故意志が通じるのか、また、それを是と当時は受け止めていたのか、
考えると何とも不思議な気がします。
「怪人悪魔博士」という作品は、題名通りの悪い人と、探偵との対決を描いた作品ですが、
この怪人、すごい能力をお持ちの割りには、動機が何ともセコく…。何というか、微笑ましい感じがします。
このシリーズはどうやら8作続いたそうですが、これは続きを読んでみたいものです。
中には、「悦楽の館」という、悪の催眠術師の姦計を、二人称の形式(!)で語る珍品もあります。
巻末は楽しみにしている、「闇からの侵入者」ですが、終盤手前に至って、ようやく周囲に災いが及び始め、
真っ当なホラー的展開を迎えます。そういう意味では、展開がかなり遅い部類のホラー小説とも言えますが、
この作品の場合、素朴な叔母の語り口調が実に心地良く、この泰然としたペース自体に特徴があると思います。
こうして居並ぶB級ホラー小説群を読みますと、B級精神というのは、整合性や作品の収拾よりも、
「とにかくこれが書きたい!」という獰猛な欲望の方を優先してしまった、ある種の冒険に近い試みなのかな、
などと考えながら、愉しく読ませて貰いました。中には、単に浅慮なだけ、という作品もあったようですが…。
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A・ブラックウッド他「怪奇小説傑作集1」
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A・ブラックウッド他
創元推理文庫
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このアンソロジーは全5巻の、怪奇小説の名作集とも言うべき、国産ホラーアンソロジーのマスターピースです。
第1~3巻が英米編、第4巻が仏編、第5巻が独・露編のカップリングになっています。
この第1巻は、19世紀から20世紀初頭にかけての、英国の黄金期の怪奇小説を中心に収録した選集です。
改めて収録された作品を見ますと、正攻法の極みとも言うべき、ものすごい重量級のラインナップです。
しかも!これで終わらず、第2巻、第3巻と作品が続くところに、英米のずば抜けた層の厚さを痛感させられます。
今は21世紀のIT社会ですから、レ・ファニュの「緑茶」の合理的説明の部分や、ヘンリー・ジェイムズの心理小説の実践や、
ブルワー・リットンの「幽霊屋敷」の後半で、突如湧き起こる神秘学の問答など、今の目から見ると、
古臭い部分があることは確かに否めませんが、それが作品の面白みまで奪っているわけではないと思います。
この選集に駄作は1つもありませんが、中でもアーサー・マッケンの「パンの大神」が、私は一番好きです。
従来の幽霊譚とは大きく異なった、新たな恐怖を創造しようという、マッケンの意志が作中に漲っていますし、
マッケンの作品からは、他の作家にはない独特の、禁忌を土足で踏みにじるような、強烈な不浄の感覚を感じます。
この作品を読むと、ラブクラフトが、いかにマッケンに多くのものを負っていたかがよく分かります。
また、マッケンの物語を語る手際が非常に独特で、この作品では、それが絶妙の効果を上げていると思います。
どちらかといえば無骨な語り口の人ですが、いきなり違う人間から話が始まったり、複眼的にこの作品を捕えたことで、
関わる者全てに災いをもたらし、しかも所在の摑めない存在、という野放しの怪異の怖ろしさが、実に上手く描かれています。
全ての作品は挙げられませんが、他に気になった作品はと言いますと、
「猿の手」は、アイデア、展開、描写の三拍子が、ここまで見事に噛み合った作品は稀なほど、よくできた怪談ですし、
E・F・ベンスンの「いも虫」もまた、アイデアが非常に素晴らしい作品です。ハヤカワ文庫の「ハードシェル」に収録された、
ダン・シモンズの「転移」という作品が、私は大好きですが、それの元ネタになった作品です。
W・F・ハーヴィーの「炎天」について、解説で平井呈一が、「光り苔のようなかすかな燐光を放つその作品」と評したのは、
全く言い得て妙で、一瞬の切れ味の鋭さと、アスファルトの向こうに立ち上る陽炎みたいな、ある種の頼りなさが混じり合った、
何とも言い難い、不思議な読後感を残す作品です。
そして、忘れてはならないのは、アメリカ文学の大家ヘンリー・ジェイムズ(怪奇小説家とは言ってはいけない人)で、
この人が独自の心理文学の手法を、怪奇小説に持ち込んでくれたおかげで、
怪異を直接的に描写しないという、怪奇小説における大きな選択肢を、後進の作家たちに残してくれたのですし、
そこから、その考えを「朦朧法」として、より先鋭化させた、デ・ラ・メアみたいな人が出てきたわけですから。
彼の「エドマンド・オーム卿」は、恐怖の描写と真相解明に明け暮れる、従来型の怪奇小説とは、
大きく印象の異なるものですし、幽霊の所在から、ある娘と恋人の恋愛感情や、娘の母と恋人との共犯意識まで、
扱われている対象のレンジが広く、私には読み応えたっぷりの小説でした。
しかし、こうして見ますと、私が好きな国書刊行会の「ウィアード・テールズ」とは、あまりにレベルが違い過ぎるなあ…。
後ろ向きな登場人物たち
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ビル・プロンジーニ
創元推理文庫
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名無しの探偵シリーズで著名な、プロンジーニのこの小説ですが、これはホラーではなくサスペンスですね。
あまりジャンルの位置付けにこだわると収拾が付かなくなるので、これ以上は差し控えますが。
お話ですが、マルティグラの真っ最中のニューオーリンズを舞台に、ジルーという旅行者が、
身に覚えのない脅迫を受けたり、謎の仮面の男から尾行されたり、次第に追い詰められ…という内容です。
ネタバレになるので詳しく書けませんが、
まあ、それだけっちゃそれだけの、身も蓋もない話ですが(読んでない人にはさっぱりですね。すみません)、
それだけで長編を仕立て上げたプロンジーニはすごい、と見るべきなのか、何とも微妙なところですね。
ただし、プロンジーニは追い詰められた人間が陥った際の、ある種の譫妄状態を、
時にはその人間の感覚に潜り込むようにして、臨場感を持って描くのに長けていますので、
その手法が今作でも大いに活かされています。というか、それなしでは長編として持たなかった気もします。
実はそれよりも、読みながら気になったことがありまして、それはこの小説の主人公が、
何かというと自己憐憫に浸ってばかりで、自分では何も決断できない、極めて優柔不断な人間として描かれている点です。
途中から作品を引っ張るのは、途中で知り合った強い女性の方で、主人公は彼女の言うままに動くばかりです。
思えば、オプ(名無しの探偵)こそそういう人でした。著者と登場人物は同一人物ではないことは承知していますが、
こんな人物ばかり造形されると、プロンジーニ自身がそういう人なのでは、と思わず勘繰りたくもなってきます。
たいてい、こういう人間は何かと昔のことを振り返る癖があって、憐憫の開陳がしつこいんですね。
ところが、まだ上には上がいました。その作品がこちら。
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チャールズ・L・グラント
ハヤカワ文庫NV
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モダンホラーの「雰囲気派」こと、チャールズ・L・グラントの長編ホラーです(今度はホラーです。良かった)。
曰く付きの旧館に謎の買い手が付いて以降、街全体に怪異が続発するという、スティーブン・キングの「呪われた街」以降、
モダンホラーの一典型となった、「街もの」(こんな言い方があるのか、私は知りませんが)の小説です。
解説によるとグラントも、「呪われた街」に強い影響を受け、七度読み返したとのことですが、
さすがに「呪われた街」と比べると、作家としての地力の差が、如実に露呈している感はどうしても否めません。
「街もの」の典型的な流れとしましては、まず舞台となる街やそこに住む人を丹念に描くことで、
作品に現実感を与えておいて、次に街を覆う怪異の浸食を、多視点で頻発して描く、というものです。
この点、この作品も見事に、「呪われた街」のパターンを踏襲しています。館に買い手が付く点も全く同じです。
で、この小説ですが、決して悪い作品ではないと思います。
グラントという人は、地味で展開に乏しいとよく批判されますが、それはある種、「雰囲気派」の宿命でもありますし、
それに、読むとちゃんと、「こと」は随時起こっています。決して雰囲気ばかりに筆を費やしているわけでもありません。
という小説の概要から、いきなり先の、後ろ向きな登場人物の件に話を戻しますが、
この小説でも一番際立っていると思ったのが、主要な人物たちの後ろ向きな言動の数々でした。
「マスク」では、憐憫に浸るのはまだ主人公だけでしたし、憐憫も内面描写に留まって(思うだけの状態で)いたはずです。
「マスク」の主人公がそういう人物造形だったのは、これもネタバレの為に詳しく書けませんが、
百歩譲って、作品の展開を鑑みて、そういう性格を与える必要があったから、と見なすことも可能です。
ところが、「ティー・パーティー」のそれは、もう作品の展開とは何の関係もありません。
こちらは、主要人物の何人かが等しくそういう性格である上に、部屋で「しっかりしろ!」といきなり自分を叱咤したり、
自己卑下が極まって誰もいないのに、照れ隠しじみた笑顔を浮かべたりなど、実際に寒々しい振る舞いに及びます。
こんなことをされると、読んでいるこちらがいたたまれなくなって、気恥ずかしさに身悶えしたくなります。
かといって、モーリス・ルヴェルの小説の孤独な人物たちみたいに、寒い冬の部屋で家具の角に足の小指をぶつけ、
誰もいないのに芝居がかった感じで、「おお、痛たた」などと口にする、あの身を切るような寂寥感もありません。
こう考えると、孤独と自己卑下では、似て非なる印象があります。自己卑下は、読者の嫌なツボを妙に刺激しますね。
何故彼らは好き好んで、登場人物にこういう性格を与えるのか?こればかりは、本人に聞く以外に分かりようがありません。
ただ、いくら明快な物語性を持った作品であっても、創作者の生理から湧き出たものである以上、
多くの小説には、このような、説明の付けようのない部分が潜んでいるように思われますし、
今の私が読んで面白いと思うのも、そういう創作者の生理が、生の形で小説に表れた部分だったりします。
というわけで、この項、結論はありません(すみません!)。
シーベリイ・クイン「悪魔の花嫁」
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シーベリイ・クイン
創元推理文庫
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ホラー小説には数多くの心霊探偵ものがありますが、本書はウィアード・テイルズを代表する寄稿家の一人、
シーベリイ・クインによる、ジュール・ド・グランダンものの、唯一の長編作品です。
何でもこのジュール・ド・グランダンものは、全部で93編も書かれたとか。ものすごい数です。
著者及びこのシリーズについては、巻末に訳者でもある大瀧啓裕による、非常に詳細な解説がありまして、
私如きが新たに付け加える事柄など何もないのですが、私見を以下に軽く述べておきます。
巻末にも述べられている通り、このクインという人の一番の特徴は、明朗さと快活な語り口にあると思います。
ウィアード・テイルズに全部で150編以上もの作品を寄稿した、筋金入りのパルプライターだけあって、
プロットの堅牢さ、次々と凝らされる趣向や展開の速さなど、鍛え抜かれた職業作家特有の地力を感じます。
実際、この小説は序盤から実に展開が早く、章毎に必ず何かしら事件が起き、退屈している暇がありません。
作中の人物もおちおち寝ていられないほど、捜査に奔走する羽目になります。
この小説は事件の捜査をするか、休憩に食事を取るかの、いずれかしかほぼ描かれていないといってよく、
食事する度に、事件の報告が来て食事が中断…という辺りが面白かったです。
また、このシリーズは、作中で必ず真相が明らかにされる論理性に大きな特徴がありますが、
その割には、このグランダンという人は、いちいち挙動が芝居がかっているのが何とも微笑ましい限りです。
よく、「神を欺けても、このジュール・ド・グランダンの目だけは欺けないぞ」みたいなことを口にしますが、
実はこれ、けっこう独り言であることが多いのです。
人目も憚らず感情の赴くままに、こういう挙動を取ることから、この人は熱しやすい激情家なのだということが、
説明をしなくても読者に伝わってきます。
登場人物の人間臭さと、鍛え抜かれた展開の早さで、ホラー以前に一つの娯楽小説として愉しめました。
ジョー・シュライバー「屍車」
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ジョー・シュライバー
集英社文庫
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原題は「CHASING THE DEAD」です(いい題名ですねえ)。
お話ですが、車を運転中のスー(スーザン)の携帯に、突然「娘を預かった」と誘拐犯からの着信がありまして、
誘拐犯の指示通りに方々へ車を走らせるうちに、次々と怪異に巻き込まれ…といった、
誘拐もの、ないしタイムリミットもののサスペンスに、ホラーの風味を和えた、題名通りの内容です。
サスペンスとホラーを足すという、おそらく初源の着想を成立させる為の、
整合性を持たせようとする苦心の跡が、そこかしこに窺えますが、むしろそれ故に多くのホラー作品が直面する
問題に正面衝突してしまった感があり、私は読んでいてそこが非常に面白いと感じました。
ホラー作品では、怪異に何らかの法則性が与えられることが多いと思います。
この小説の怪異にも明快な法則性があり、それは読むうちに明らかになるのですが、
この小説の場合、ホラーにサスペンスの要素を導入する為の理由付け、という側面が強過ぎるように思いました。
怪異に法則性を与えることには、以下の問題が付いて回ると思います。
果たしてその怪異は明らかにされた方が怖いのか、明らかにされない方が怖いのか、という問題です。
この問題にはそれぞれの人の見解や解釈、生理もあって、一様ではありませんが、
デ・ラ・メアの「朦朧法」の記述なども、この問題への、ある解答の一つのように思われます。
この小説の場合、怖いというよりも、何やら滔々とこじ付けを読まされているような気に…。
また、もう一つには、そもそも誘拐犯が主人公に電話であれこれ指示を出すのですが、
何だかやたらに饒舌で、怖い人がこんなに軽口ばかり叩いてていいんだろうか、というのが実に気になりました。
この小説はむしろ、「TAKING THE DEAD」という感じで、まあ喋ること喋ること!
こんな饒舌な怪物は却って珍しくて、いっそ面白いくらいです。
怪物は喋る方が怖いのか、無言の方が怖いのか、または襲ってくるのが怖いのか、じっとしているのが怖いのか…。
このことは、先の怪異の法則性に付随する、今一つの大きな問題のように思われます。
この辺りのことに、どーんと正面衝突したこの小説を読みながら、随分と考えさせられるものがありました。
作品自体は、展開が早く、描写も臨場感があって、地力は十分にある作家さんだと思います。
那智史郎 宮壁定雄編「ウィアード・テールズ3」
![20070108195529[1]](http://blog-imgs-97.fc2.com/a/b/c/abc01784/20161125003025d8e.jpg)
ニッツィン・ダイアリス他 那智史郎 宮壁定雄編
国書刊行会
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編者によりますと、第3巻は同誌の黄金時代前期(1930~1935年)の作品群を収録したもので、
前回紹介した第2巻は、興隆時代(1927~1929年)に当たるそうです。
さすが黄金時代、やっとお魚がぴちぴち元気にはぜてきたといいますか、活きのいい作品が揃って参りました。
巻頭のロバート・E・ハワード「はばたく悪鬼」から、いきなり修羅場の幕開けです!
この作品は冒険家ソロモン・ケインの冒険譚の一つで、辺境の地に巣食う蝙蝠人間とケインの攻防が描かれますが、
ケインの闘争本能が凄まじ過ぎて、蝙蝠人間の方が却って怯えを示す有り様です。
このハワードという人ですが、殊に闘争の場面になると、語り口が極度に高揚する人で、獣じみた獰猛さがあります。
このような、地金が剥き出しになった文章を持った人は、やはり作家として相当強いと改めて思わされました。
個人的に印象深かったのが、H・S・ホワイトヘッドの「悪霊夫人」です。
内容は全く題名通りなのですが、この作品は物事を語る順序が面白いです。
冒頭はこんな感じです。
西インド諸島の住民が腰蓑を付けていると誤解される事例→主人公が腰蓑を売り付けられそうになっている老婦人と知り合う→たまたま家が近所で仲良くなり、一家でトランプに興じる→夫人はやたらトランプが強く、普段はとても温厚な人なのに、トランプの時になると人格が豹変する(何だかおかしいな)…
こういう婉曲的な進め方も、着地点をあれこれ考えながら読む楽しみがあっていいですね。
個人的には、メタフィクション的な身辺雑記から話を始める、三津田信三の作品にも共通するような、
語りのプロセスの面白さを感じました。
また、アイデアの見事さでは、マリー・E・カウンセルマンの「三つの銅貨」が一歩抜きん出ていると思われます。
ジェイコブズの「猿の手」の変奏を思わせるような、人に幸運と不幸をもたらす三つの銅貨のお話です。
最後は、楽しみにしている連載作品、グレイ・ラ・スピナの「闇からの侵入者」ですが、
今回でようやく邪悪の正体が明らかになります(といっても、とっくにお察しが付くのはご愛敬ですが…)。
今回は主人公の叔母がお茶会に招かれると、居合わせた曰く付きのロシア令嬢に仕掛けられる心理戦が見どころで、
まるで学校の教室で、自分を嫌っている人間が主導権を握り、少しずつ肩身が狭くなっていく時のような、
現実でも身に覚えのありそうな、じんわりと嫌な感じが、実に上手く描けています。
この人も天性の物語作家だと思わせる、素朴ながら滑らかなな語り口を持った作家だと思いました。