ジョン・コイン「闇から来た子供」

20070108195529[1] 闇から来た子供
 ジョン・コイン
 扶桑社






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 所謂、B級ホラー小説といって差し支えないと思います。
 取り立てて特筆するところはありませんが、B級ホラーの許容は、ホラーを嗜む以上、常に付いて回りますし、この小説が嫌いではないので、ここで取り上げてみました。
 ジョン・コインは、以前「レガシー」というホラー映画のノベライズを書いた人だそうですが、今更「レガシー」と言われても…というのと、他では「罠」だか「プレデターズ」だかといったホラーアンソロジーで、短編が訳されたくらいしか名前を見た覚えがありません。こと日本では、十分にマイナーな小説家だと思います。この作風なら、それもむべなるかな、というのが正直な印象です。

 まずは解説にあることを、そのまま孫引きします。解説はコインの概略を、上手く要約しています。
 ジョン・コインの小説は、無闇に暗く陰惨な作風に定評があり、郊外の田舎町を好んで舞台に選び、RPGゲーム、ニューエイジといった現代風(といっても、もう30年近く前の話ですが)の設定を用いるも、幽霊、因襲、宗教といった古典的題材に怪異の源泉を求め、自己探求型の女性主人公を好んで描く、といった辺りが共通の特徴のようです。このことから、ジョン・コインが作風を毎回変える挑戦型の作家であるより、定型の枠内で語ることを好む、金太郎飴型の作家であることが窺えます。
 以上の特徴と、実際に読んだ印象から、同じ金太郎飴型ホラーの大御所、ジョン・ソールの名前がを嫌でも思い浮かびますが、実際、二人の作風はよく似ています。
 この小説を読む限り、田舎町の因襲、旧家の怨念といった題材を好んで用い、とにかく暗く陰惨なソールの作風の影響が、至るところから見て取れます。ペースが遅く、粘着質で異様にしつこいソールの文体が、ソールの小説には見事に合致していますが、コインの文体には、ソール譲りの(?)異様に粘着質な部分と、強引で筆の荒い部分が混在しており、個人的にはこういうごつごつした印象の、噛み合わせの悪い部分のある小説は好きです。噛む合わせが悪いということは、読んでいて引っ掛かる部分(考えさせられる部分)もあり、そういったことを以下に考えてみます。

 コインのしつこさも、ソールのしつこさも、話をとにかく暗い方へ暗い方へと運びたがる、展開のエスカレーションを基調にしていると思いますが、コインの小説には加えて、女主人公の果てしない自己韜晦と自己合理化が付き纏います。この部分が相当にしつこく、気持ちを持ち直す、崩れる、持ち直すといった、無限ループを最後まで繰り返すので、ここがこの小説で読んでいて、最も堪える部分でした。
 話は飛びますが、以前、自分が発表した小説に読者の方から、主人公が嫌いなタイプなので、(怖い目に遭って)「ザマぁ」と思った、という感想を戴いたことがありましたが、その時に私が思ったのが、「そう思われたのなら、これは失敗だ」ということでした。この感想はとても示唆的で、怖い目に遭う人のありようを読んで、読者がそれを追体験するのがホラー小説の基本的な形だと思いますが、作中の人物に抱くある種の感情が、読者に抱いて欲しい恐怖と相反する場合があります。特に作中の人物への嫌悪感が刺激された場合、恐怖を阻害しかねないことが多い気がします。
 この小説を読んだ時の私が女主人公に抱いたのが、先の読者の方と殆ど同じ、「コイツ、何やねん!」という気持ちでした。自分の小説が人から見ると、こう伝わるのかという実例をこの本に見た気がしました。全く個人的な事柄ですが、これは善いことでした。
 主人公は聡明なソーシャルワーカーとして描かれ、事務的な業務内容に疑問を感じ、地下の中で暮らしていたホームレスの少年の里親になるところから物語が始まりますが、この主人公は聡明どころか、ことある毎に気持ちを昂らせ、一喜一憂というレベルを越えて、何かあればめそめそ泣き、他人に喰ってかかり、自己憐憫と自己合理化の間を忙しなく行き来し、横恋慕を常に画策し、トラウマもしこたま抱え込んでいます。
 そこに作品の主題たる、「悪とは何か」という果てしない自己問答の開陳が加わります。この小説で事件が起きていない時の描写の大半が、この女主人公の心理の変遷に費やされますが、この小説の一番の問題は、この変遷が実に不自然なことです。著者が作品を暗い方へ導きたいので、この場面では(主人公に)こう思って欲しい、といった恣意性を至るところに感じます。さすがにソールの小説は、ここまで不自然ではなかったと思います。
 展開を優先し、状況毎に人物の感情を恣意的に操作し続けた結果、本来そんな意図はなかったのに、総体としてとても厭な女に仕上がっていた。そんな気がするのです。また、都合良くエロいところが、実に恣意性を感じさせます。
 三人称多視点で描かれるこの小説には、他にも何人かの主要人物が出ますが、この女主人公同様に、大半の人間が身勝手で自己都合を優先し、判断基準の目安があられもない性欲です。内面描写が多いのに、露骨な思考の変遷が延々と続くところに、この小説の大きな問題があります。ただ、不埒な性欲が死を招くのはホラーにおける定石でもあり、作品に惨殺描写が溢れ返ることにも繋がります。長所と短所が表裏一体となった、歪つな力が作品から伝わってきます。
 
 人物の内面を描く粘着質なしつこさに反して、中盤以降バタバタと人が死ぬ描写は、随分と筆が荒く性急です。途中で出た人間が、その章の中でいきなり死ぬ(所謂、ただの「死に役」)のはざらで、最後は主人公が何処に行けば、誰かの死体に出喰わすといった状態になります。この物量作戦のような死の数々は、先の内面のしつこさとは異なる反復行為によるしつこさがあり、延々続く死を読まされ続けると、一つ一つの死が幾ら安手でも、作中に死が蔓延しているといった、ホラーとしては好ましい気配が作中に漂い出してきます。
 実は、性急で粗末な死が溢れるこういった感じには、何かしら記憶に残るものがあり、それは何かと探っていたら、イギリスのスプラッタパンク小説家、ショーン・ハトスンの感じにそっくりなのでした。ショーン・ハトスンの作風は、コインの作風から面倒臭い内面描写を取っ払って、ひたすら殺戮の為の殺戮を描く、B級ホラーの鑑のような人で、私は当然ハトスンの小説が好きです。
 
 という訳で、ジョン・コインという人は、ジョン・ソールの皮を被ったショーン・ハトスンでした。
 これが本稿の結論です(珍しく結論が出ました!)。
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中村融編「影が行く」

20070108195529[1] 影が行く
 P・K・ディック、D・R・クーンツ他 中村融編
 創元推理文庫






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 リハビリで、この記事を書いています。
 最近は思うところがあり、SFの中に、自分には新しいホラーの源泉を探っています。「ホラーSF傑作選」と銘打たれたこの本は、今の私には打って付けの本で、実際に面白く、読みながら色々と思うところがありました。編訳者の中村融は近年、名アンソロジーを多数編纂しており、当ブログでは以前、「怪物ホラー傑作選」である、「千の脚を持つ男」を取り上げました。
 編者自身による巻末の解説は、自らが考えるホラーSFの定義付け、SF、ホラー双方の変遷の概略などが手際よくまとめられ、この解説一つで、編者が<利き手>であること、この本が優れた選書であることを裏付けているように思われます。

 冒頭を飾るのは、SF、ホラー双方に跨る大御所、リチャード・マシスンの「消えた少女」です。
 お話を要約しますと、声はするのに姿が消えた娘の話で、ここであっさりネタをバラしますが、娘は四次元に転移したのです。舞台は家のリビングのみ。どうしようもなく右往左往する両親と、その友人の顛末が描かれただけの佳品ですが、この作品で起こった出来事は、何かの因果があった訳でも、何かの意志が介在した訳でもなく、それがただの現象であるが故に、何の手の施しようもありません。目の前に断絶を示す壁が聳え、人間を突き離したような恐怖の感触が生まれます。
 この、実にドラスティックな怪異へのアプローチは、SFが介在したホラーの恐怖の質が、従来のホラーのそれとは大きく異なることを如実に示す、冒頭にふさわしい作品だと思います。編者はこの作品を、日常生活の中に、SF的な怪事件が降りかかる、「ミステリー・ゾーン」的な作品と位置付けています。このようなアプローチの作品が、ホラーSFの大きな潮流の一つであることは確かなようです。この短編は後に、実際に、「ミステリー・ゾーン」で映像化されたそうです。

 シオドア・S・トーマスという人は、知る人ぞ知るマイナーなSF作家とのことですが、本書に収録された「群体」という作品では、ホラーではお馴染みの「不定形な怪物」(スライム、ブロブなど)を扱っています。「不定形の怪物」は、ホラーにもSFにも非常によく映える存在で、それを何らかの科学的根拠に結び付けるのも実に容易だからです。
 この作品は、地下の下水道の中で繁殖した「群体」が地表に滑り出て、ものすごい規模で街を覆い尽くす過程を、ひたすら客観的視座に立って描いた極めてドライな作品で、それが不定形の怪物に呑み込まれる人間の描写などを、筆を尽くしておぞましく描こうという、ホラー的なアプローチに則った作品とは異なる感触を持った一作で、冷やかな視座の恐怖といった感じが作品から滲んできます。
 この作品で目を惹くのは、科学的論理に即した怪物の描写です。例えば人間を吸収する際に、人間は体内の60パーセントが水分ですが(実際は70パーセント?この作品には、60とあります)、怪物は40パーセントしか水分がない為、残20パーセントは余分として周囲に溢れ出る、といった描写が出ますが、このようなロジックに即さないとなかなか書けない描写です。描写のありよう自体が変わってくるといったことは、今の私がSFに求めるものに近い気がするように感じました。

 全作の感想は書けませんので、個人的に一際素晴らしいと思った三作を、下記につらつらと挙げます。
 編者曰く、1950年代のアメリカに台頭した、空前のパラノイア社会状況を端に発しながら、一人その遥か先を行ってしまった作家というのが、P・K・ディックだそうですが、これに異論を唱える人は誰もいないと思います。
 隣人が怖い=人間に擬態した生命体、といった従来型パラノイアを援用しただけの作品の遥か上を行く一例が、ディックの名作、「探検隊帰る」です。この作品については、ネタは一切バラせません。短くて非常にタイトな作品ですので、これは是非お読み下さいとしか言えません。描かれなかった作品の背景に思いを巡らせると、変わったのは世界(宇宙)の位相なのだと思い至ります。この短さで、話をそこまで持って行ってしまう凄み。やはり、ディックは「遥か上」の小説家のようです。
 私はSFプロパーではありませんが、おそらくSFの魅力の根幹は、これまで常識的に捉えてきたはずの世界の位相が、読者の中で変化していく、まさにその瞬間にあるように思われますが、そういう意味ではディックは、かなり端的にそれを味わわせてくれる小説家だと思えます。世界の位相の変化、これがSFの側からのホラーにおける恐怖の源泉ではないかと、私は今のところ考えていますので、最終的には何の理系の素養もないのに、ハードSFを見果てぬ終着点のように思い描いています。ディックに科学的素養は殆どないと思いますが、ひょっとすると、SFにおけるホラーの源泉を最も体現した小説家の一人なのではないかと、私は密かに思っておりました。
 ホラーSFの源泉に触れるという点で、決して外せない作家、ということでディックの作品をここに挙げました。

 表題になった、ジョン・W・キャンベル・ジュニアの「影が行く」は、まず間違いなく、この編書のハイライトともいうべき傑作だと思います。ここにはSFの側からホラーにできることの、ほぼ全ての面白さが詰め込まれているように思えました。
 この小説はジョン・カーペンター監督の傑作ホラー映画、「遊星からの物体X」の原作でもあり、原作を読んでから改めて映画を思い返すと、よくこの作品の雰囲気をあそこまで忠実に映像化できたなと、映画への畏敬の念も新たに芽生えさせられた、素晴らしい読書体験をさせて貰えました。
 南極基地という閉鎖環境。氷に閉ざされた過去の宇宙生命体と、その特性。浸食。擬態した人間は誰かという疑心。それを発見する方法のSF的アプローチ。ここまでお膳立てがきっちりと揃ったホラーSFも、稀かと思います。短編中心の選書にあってこの作品は中編ですが、長さに十分見合った中身の伴った作品だと思います。
 人間に擬態し、社会に溶け込む異生物という存在は、ホラーSFにおける常道の一つです。この作品や、ジャック・フィニィの名作、「盗まれた町」の完成度に迫るのは実に困難な気がしますが、浅学な私が知らないだけで、むしろ21世紀の科学素養に基づいた、ものすごい擬態ものの作品があるのかも知れず、そういう小説があったら、是非読みたいと思うところです。人間社会に溶け込む異生物は、ホラーでいえば吸血鬼のように、様々なバリエーションや味付けを施せる、挑戦しがいのあるホラーSFの一定型だと思います。その原石の一つになった作品ということで、ここに挙げさせて貰いました。原石の力強さが漲っております。

「影が行く」に並ぶ今一つのホラーSFの常道が、宇宙人侵略だと思いますが、この今一方の定型を、これまた素晴らしい完成度で描き切ったのが巻末に組まれた、英国SF界の重鎮、ブライアン・W・オールディスの「唾の樹」で、この小説も中編ですが、長さに見合った内容は十分保証できると思います。
 正攻法で重々しい筆致が迫力満点だった「影が行く」に比べますと、「唾の樹」の闊達な筆遣い、緩急の巧みさ、著者のシニカルな眼差しなどとは見事に対を為すもので、SFという以前に、オールディスという人は本当に手練れで、一筋縄では行かない人だと感じました。作品の中に様々な層の厚みがあり、一つの作品の中で、読者が個々に色々と面白い点を抜き出せるような小説にもなっていると思います。
 シニカルさの一端をここに記しますと、舞台が十九世紀末(?)の英国の僻地になっている点です。作中の人物の一人は科学的見地から事態を推察できる人間として描かれていますが、周囲の農民たちはまだ未分化な生活様式や価値観の中を生きており、SFにつきものの論理性を、作品全体で玩具のように扱う皮肉さが漂っています。一方、科学的とされる人間も、当時の「自由主義的」な身勝手な傾向があり、著者はどの立場にも均等に「シニカル」で、私はこういう性格の悪い作品が好きです。自分は直情的な作風なので、こういう洒脱さを素直に羨ましく思います。
 また、この小説はメタ小説でもありますが、それは読んだ方のお愉しみということで、ここでは割愛致します。
 巻末にツイストの利いた、ホラーSFの王道中の王道的を描いた作品を配して、アンソロジーを華麗に締め括る、編者の手並みの鮮やかさにも感心させられました。

 これまでSFの側からホラーに接近した作品を取り上げましたが、最後にホラーの側からSFに迫った作品を挙げて終わります。
「ウィアード・テイルズ」派の巨匠、クラーク・アシュトン・スミスの、「ヨー・ヴォムビスの地下墓地」という作品がそれです。
 内容は火星の古跡探検隊の遭遇する恐怖を描いたもので、要は秘境の舞台が火星になっただけという作品で、編者はこういった作風を、SFとしては噴飯物でも、ホラーSFの今一つの金脈、と位置付けております。
 彫刻、詩も嗜む、生粋の芸術家肌であるスミスの流麗な文体が生み出す、華麗な火星のイメージが文を読む目にも美しい一品ですが、私がこの作品を読みながら思ったのは、これまでSFという(自分には)異分野から垣間見るホラーの面白さと全く相反する、読んでいてあまりにも肌に馴染みのあり過ぎる感触、といったものでした。科学的根拠など皆無に等しく、これまで散々秘境の恐怖を扱ってきた、それこそ「ウィアード・テイルズ」辺りで散々描き尽くされた作風と全く同じものがそこにあった、というだけなのですが、純正なホラーから離れたくてこの本を読んだのに、結局は元の鞘に収まっただけかと憮然としましたが、それでも面白いものは面白いとしか言いようがなく、結局自分はこっちの側の人間なんだと再認識させられた気がしました。
 逆にこの選書の中では、この一作は図抜けて異色な肌合いを持ち、「千の脚を持つ男」における、フランク・ベルナップ・ロングの表題作を読んだ時も同じ印象を持ちましたが、「ウィアード・テイルズ」を主戦場にしてきた小説家には、曰く言い難い独特の作風がある気がしてなりません。純正なSF作家で、異郷作家とも称されるジャック・ヴァンスの、「五つの月が昇るとき」という、スミスの作品とよく似た作品もこの選書にはありますが、ヴァンスのそれとも、やはりスミスのそれは質感が大きく違っていて、小説家の出自の違いを愉しむという、なかなか面白い体験ができたことも、最後に言い添えておきたいと思います。
 良いアンソロジーでした。
 



 

 

仁賀克雄編「猫に関する恐怖小説」

20070108195529[1] 猫に関する恐怖小説
 フレドリック・ブラウン他 仁賀克雄編
 徳間文庫






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 創元推理文庫刊の「怪奇小説傑作集」5部作に比肩する名アンソロジー、「幻想と怪奇」3部作(ハヤカワ文庫)の編者として有名な仁賀克雄が編纂した、猫をテーマにした恐怖小説集です。
 題材のせいか、全体的には小粒なアンソロジーに仕上がっておりますが、全てのアンソロジーが、「闇の展覧会」だの、「ナイト・フライヤー」だのみたいに、長大重厚なものばかりでは疲れますので(そもそも本を持つ手が重い)、たまにはこの本のように、いい按配に小粒なアンソロジーがあっても良いように思います。
 また、執筆陣が無闇に豪華ですので、下記に題名と著者を挙げます(これが書きたくて、この記事をアップしたようなものです)。

 トバーモリー/サキ
 猫男/バイロン・リゲット
 猫の復讐/ブラム・ストーカー
 白い猫/S・ル・ファニュ
 猫ぎらい/フレドリック・ブラウン
 僕の父は猫/ヘンリー・スレッサー
 古代の魔法/A・ブラックウッド
 箒の柄/W・デ・ラ・メア
 灰色の猫/バリー・ペイン
 ウルサルの猫/H・P・ラヴクラフト
 エジプトから来た猫/オーガスト・ダーレス
 緑の猫/クリーヴ・カートミル
 七匹の黒猫/エラリークイーン
 魔女の猫/ロバート・ブロック
 著者謹呈/ルイス・パジェット

 所謂、古典派の巨匠(腕を組んでどっかと座る首領級といった趣き)から、御大を筆頭にラヴクラフト門下生(道場荒らしめいた、やんちゃな一派)、「奇妙な味」に属する手練れ(こちらは斜に構えたクールな方たち)、マイナー小説家まで、万遍なく幅広いラインナップです。怪奇小説ファンには著名な、「あの人が、こんな作品を」という、アンソロジーならではの愉しみも味わえると思います。
 何を考えてるか分からない、執念深い、眼が光る、音もなく忍び寄る、無言で窺い見る、といった、魔性としての猫、という旧態然とした猫観に則った小説が大半ですが、猫カフェができ、SNSで連日猫の愛くるしさを強調する動画や写真がアップされる昨今となっては、個人的には一巡して新鮮味すら感じられ、ありし日の価値観を今の目で読むことは、何であれ色々と思うところがあって、面白いものだと思います。
 因みにストーカーの「猫の復讐」は、猫を愛してやまない方の中には、本気で怒り出す方もいそうな気がします。猫の扱いが本当に酷いですから。小説は因果応報の極みといった内容ですが、ここにも人間主導の、当時の漠然とした価値観が作中に横たわっているように思えます。

 作品単位でも、小粒ながら印象深い作品が幾つかあります。
 相変わらず、「朦朧」っぷりが著しく、思わせぶり過ぎて実に尾を引くデ・ラ・メアの「箒の柄」(デ・ラ・メアは「朦朧法」の大家)。作中の猫の不気味さでは一際印象に残る、クリーヴ・カートミルの「緑の猫」(この作品は、SFホラーの佳作でもあります)。パルプ誌出身らしい大雑把さが魅力の、ブロックとダーレスの諸作。殆どダジャレの域に近いブラウンの「猫ぎらい」。コントに翻案できそうなスレッサーの「僕の父は猫」(この作品はちょっと好きです)。

 中でも素晴らしいのは、個人的には下記の3作だと思います。
 バイロン・リゲットという人は、アメリカの退役軍人という以外に詳細不明の人のようですが、無人島を買い取った富豪を描いた「猫男」は、想像するだに悪夢としか言いようのない世界です。ネタがばれたら面白くないので、これ以上の紹介は控えますが、この人が書いたものが他にあれば、是非読みたいと思うところです。
 ルイス・パジェットの「著者謹呈」は、近年では文春文庫刊、「もっと厭な物語」にも再録されていましたが、確かにそれも頷ける、お話のネタ自体が非常に面白い、猫テーマの傑作の一つだと思います。復讐に燃える悪魔の使いの猫と、猫に復讐される私立探偵の攻防を描いた作品ですが、これも探偵がどう猫に対処するかを書いてはネタばれになる為、紹介は控えますが、綺麗に着地したラストまで含め、まず退屈する間もなく一気に読める、素直に面白い一編かと思います。この話を読んでいて、何とはなしに「血の本」シリーズの頃のクライヴ・バーカーの、幾分気楽な部類の短編を思い出しました。直截的には、「下級悪魔とジャック」ですが、作中の皮肉な造形とロジックが、その頃のバーカーの小説との親和性を感じさせます。

 間違いなくこの本の白眉で、最も重厚なのが、怪奇小説の巨匠ブラックウッドの、「古代の魔法」です。この作品が結局は、全てを掻っ攫っていったと個人的には思います。
 この作品は、ゴーストハントものの代表的なシリーズの一つである、ジョン・サイレンス博士ものの一編で、「いにしえの魔術」などの題名で、他の編纂集などにも度々掲載される、つまりは掛け値なしの傑作です。
 作品は、ひょんなことからフランスの田舎町に逗留する羽目になった、侘しい中年男の体験談です。時代から取り残された、閑静なこの田舎町は何かがおかしいと気付き、次第にそれが男を浸食し、徐々に抗い難く魅入られていく過程が、異様な迫真性を以て有無を言わせず読者に迫ってきます。徐々に盛り上がる怪異を、異様なまでに仔細に、かつ重厚に描く筆致は、ブラックウッドの独壇場とも言うべきで、彼の文体や世界観には、冗談が全く通じないような、教義的とも言うべき息の詰まる堅苦しさがありますが、それと題材が合致した時の突破力は、唯一無二といって良いと思います。この作品は、それが最も上手くいった作品の一つだから、時代の浸食にも抗い後世にまで残る力が、作中に漲っているのだと思います。
 そもそもブラックウッド自身が生粋の神秘主義者で、大自然や超意識といったスピリットを畏怖する、その本気ぶりが彼の作品の特質であり、反面教義的な息苦しさにも繋がっている気がします。この作品は重厚さに加えて、中年男の寄るべなき寂寥感をも切々と掬っており、久々に読み返しながら、嘆息が漏れるような気分を味わいました。ぐうの音も出ないというか、完全に出来が違います。
 因みに、ジョン・サイレンスものを通読すると分かりますが、ブラックウッドという人には、内面の激しい教義的世界観と、意気消沈した人への無類の優しさが混在しており、ジョン・サイレンスものを読んでいると、妙なところでいきなり涙腺を刺激されたりするので、どうにも困ったものです。「お疲れな人には、ジョン・サイレンスもの」なんて、世相を反映した斜めからの切り口も、マーケット的にありかも知れません(?)。
 何だか最後はブラックウッドの話ばかりになってしまいましたが、好きなもんでご容赦下さい。この作品はこの本だけでなくても読めますし、ジョン・サイレンスものは他にも傑作多数ですので、怪奇小説好きな方には、全力でお薦めしたい次第です。

 最後に余談ですが、この手のアンソロジーには珍しく採録された推理小説の大家、エラリー・クイーンの「七匹の黒猫」に登場する人物の一人の名前が、ハリー・ポッターでした。

三津田信三「怪談のテープ起こし」

20070108195529[1] 怪談のテープ起こし
 三津田信三
 集英社






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 今回ご紹介しますのは、以前「赫眼」をアップしました、推理小説とホラー小説の双方に跨って、旺盛な執筆活動を続ける三津田信三のホラー短編集、「怪談のテープ起こし」になります。
 今回も「安心と信頼の三津田信三」ブランドは健在です。矛盾するような言説になりますが、とにかく安定して怖く、個々の作品のバラつきが極端に少ないのは、本当に驚異的です。最近も、「わざと忌み家を建てて棲む」という、厭な題名の小説も上梓されたようです。これは早く読みたいところです。

 三津田信三のホラー小説の主な特徴につきましては、前回の「赫眼」の記事でも私見を書かせて戴きましたが、その大きな特徴の一つに、著者の身辺雑記的な描写から始まるという、メタフィクションの手法がどの作品でも取り入れられている、ということがあります。このメタフィクションの援用には、主に以下の二点の狙いがあると思われます。
 ①心霊怪談テイストの小説の、現実感を補強する為
 ②その小説の話者を明確にする為
 ①と②は小説の中で分かち難く結び付いているものですが、②につきましては小説によって、ほぼ聴き起こしのような一人語りの体裁もあれば、体験談を著者が小説として再構成したという体裁の三人称叙述の小説もあります。
 そもそも②を小説毎に律義に規定すること自体が、他の小説家には殆ど見られない姿勢だと思いますが、これはどの視点から小説を語るかを、創作上の姿勢として、著者が非常に重視しているからだと私には思えます。②をきっちりと規定していくということは、一体誰の視点で語れば、この小説は最大限に怖くなるか、ということを著者が常に考えているからだと思います。小説における視点の選定には、まず一人称か三人称か(二人称もありますが、ここでは割愛します)という選択がありますが、三津田信三の場合、その選択の先に、これは体験者の自語りが良いか、著者が三人称(あるいは一人称)に再構成した方が良いかという、より当事者性を強調する選択が続く、といった按配です。この選択が見事に効果を発揮した成果が、三津田信三のホラー小説の大きな特性の一つであると、私は考えます。

 
 上記の特性を踏まえ、今作で著者は、さらに現実感を補強する為の仕掛けを講じてきます。
 今までの著者の短編集は、独立した短編が並ぶ、通常の短編集の構成でしたが、今作では小説と小説の間に、序章、終章、幕間を設けて枠物語の体裁を取ることで、短編全体を接ぎ木して一貫性を持たせ、より現実感を補強する試みを行っております。枠物語自体が、この著書を上梓するにあたっての、著者と編集者のやり取りという、まさにメタフィクション的な構成になっております。今作は、枠物語の中にも各短編にも、現実とのリンクが補強された、二重のメタフィクションという構成になっております。
 また、その枠物語によりますと、今作の大半が怪談のテープ起こしを再録、再構成したという設定になっており、ついに記憶にある逸話ではなく、テープという記録媒体からの聴き起こしという、実に物々しい領域に今作は達しました。
 初のホラー短編集の「赫眼」の時点で、方法論的には既に高いレベルで完成されており、しばらくはその方法論に従って執筆を進めてきた著者が、ここに来てさらに方法論を深化させようとする、創作上の向上心が窺えた気がして、その姿勢に私は感銘を受けました。

 このような構成で書かれた作品ですが、基本的に完全に外した作品は、一作もないと思います。
 小説の中でも著者自身が述懐しておりますが、「黄雨女」と「すれちがうもの」が同工異曲のような小説になっております。どの短編も「徐々に接近してくる怪異」を扱った短編ですが、設定も展開も異なりますので、私はむしろ、同工異曲の作品を仕上げるパターン差を読めた気がして、却って非常に勉強になりました。
 この短編集の白眉は、「留守番の夜」、「集まった四人」、「屍と寝るな」の三作だと私は思います。
 どの作品が好みかは、それこそ個人主観によりますが、私は「集まった四人」が一番怖いと感じました。音ヶ碑山という山に登山することになった四人の話ですが、まず四人共通の招待者(四人は招待者とはバラバラに接点があって、全員初対面です)が、用事で来れなくなったと急に連絡が入る時点で、もう既に物語から不穏な気配が漂います。音ヶ碑山にまつわる不吉な伝承、それを示すような痕跡、場所自体の忌わしさ、魔に魅入られて人格が変わってしまう人物たち、何もかもが怖いです。何より厭なのは、人格が変わって完全に魔に取り込まれてしまった人間たちを、「傍から見る」という状態です。当人が直截的に怪異に遭遇するのとはまた違った、嫌な怖さがあります。
 話自体にどうも事態のはっきりしない厭な感じがあって、最後である解釈が示されたことで却って混迷を増す、奇妙で不可解な「屍と寝るな」、一晩だけある豪邸の留守番を頼まれる羽目になった人の怪談、「留守番の夜」、いずれも出色の出来だと思います。
「留守番の夜」では、「ずっと部屋にいるから、全く相手にしなくていい」という住人の存在が示されますが、同じ家に居ながら全く存在感のない同居人は、完全に恐怖の対象でしかありません。私はこの小説を読みながら、こちらも非常に不穏な、ダン・カーティス監督の「家」という映画を思い出しました。原作はハヤカワ文庫のモダンホラーセレクションで出版された、ロバート・マラスコの「家」です。私は原作は未読ですので、いつか是非読んでみたいです。
 
 

中村融編「千の脚を持つ男」

20070108195529[1] 千の脚を持つ男
 シオドア・スタージョン他 中村融編
 創元推理文庫






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 さて、今回ご紹介させて戴きますのは、近年、創元推理文庫を中心に、「街角の書店」、「夜の夢見の川」など、SF・ホラーなどのジャンルで次々と名アンソロジーを編纂されている翻訳者、中村融編の怪物ホラー傑作選、「千の脚を持つ男」になります。

 怪物といえば、私も「ウィアード・テイルズ」に倣って創刊しました同人誌、「DAMMED THING Vol.1」で、テーマを怪物にしましたが(一つ妖怪ネタも混じっていたような…)、怪物ネタの場合、お話自体のアイデアを考えると同時に、どんな怪物を創造するかという怪物のアイデアも同時に問われるのだなあ…という印象を持ちました。私の場合は、何とも苦し紛れだった、甘い記憶があります。という訳で今作なのですが、お話良し!怪物良し!と、バラエティに富んだ怪物テーマの短編が10編揃っております。おそらくこの一冊で、怪物のカテゴリが一通り敷衍できるのではないかと思うような、素敵なアンソロジーです。
 編者が巻末に解説を記しておりますが、それによりますと、本作は編者が幼少期の頃に多大な影響を受けた、「ウルトラQ」を、紙面で再現したかったのだそうです。

 
 巻頭ですが、実にオーセンティックな怪物である、不定形の怪物(スライム、ブロブと呼ばれているあれですね)を扱った、ジョゼフ・ペイン・ブレナンの「沼の怪」から幕開けです。深海で悠久の昔から存在する不定形のそれの生態を克明に記した、非常に長い時間軸の描写から始まった冒頭から、アメリカ西南部(?)の沼の近くの近隣住人の逸話へ移る間の、急に身近な展開になったな、という強引な接ぎ木感が、妙に愉しい一編です。沼に潜む怪物が次々と人間を喰らい、警察が出動し…と、展開自体も極めてオーセンティックで、冒頭に打って付けの作品だと思います。

 個人的印象ですが、作中一番面白かったのが、SF界の大御所シオドア・スタージョンの「それ」です。ある森の腐葉土から発生した怪物を扱ったこの作品ですが、森に住む一人娘のいる夫婦と、夫婦の営む牧場を手伝う夫の弟の四人がそれぞれバラバラに行動して、怪物に遭遇する過程が、三人称多視点の描写の中で、実にスリリングに展開する、没入度では群を抜いて際立った一編になっております。
 また、秀逸なのが、おそらく他ではあまり見ないような怪物の概念で、やはり怪物自体のアイデアということになりますと、SF小説家のそれは非常に秀逸であり、なかなかホラープロパーな小説家にはない発想の仕方をするものだと、改めて思わされました。怪物は民俗学的アプローチにも、科学的アプローチにも、両方良く映える存在です。一時期隆盛を誇ったディーン・R・クーンツにしましても、元々はSF小説家だったのですし、この分野に多くのSF小説家が参入して欲しいと、切に願うばかりであります。

 怪物の気持ち悪さという点では、R・チェットウィンド=ヘイズの「獲物を求めて」が一歩抜きん出ております。怪物を描く上で一つの大きなポイントが、どれほど生理的嫌悪感を際立たせられるかかと私は思いますが、この小説の怪物は、個人的印象ですが、実に厭なフォルムをしております。少し人のよすがが残っているというのが、本当に厭です。お話自体もある有名なモンスターを扱った変種の小説で、捻った設定も作品に一役買っていると思われます。

 標題にも使われました、「千の脚を持つ男」の著者、フランク・ベルナップ・ロングですが、この人は筋金入りの米国パルプ誌作家で、「ウィアード・テイルズ」の代表的な寄稿家の一人でもあります。編者によりますと、ロングは「怪作王」の称号を謹呈したい小説家だそうでして…まあ、全く仰る通りで、二言もございません…。
 そのせいか、編書中でこの人の小説だけが、明らかに他の小説からは浮いた妙なちぐはぐ感と、独特の熱量と強引さを感じさせ、そういう意味では一際目を引く、めくらましのような一作になっていると思います。この小説が執筆された1920年代後期は、既に米国パルプ誌は百花繚乱を迎えており、特にSF・ホラー系では、マッドサイエンティストの身勝手な探究心が、とんでもない悲劇を生むという小説が、それこそ雲霞のごとく発生したのですが、たいていそこで描かれるマッドサイエンティストは、根本的に思慮が浅く、とても頭の良い人に見えないのが、何とも面白いと思うところです。
 勿論、「怪作王」(笑)が満を持して放った、作中の科学者の頭が良いはずもなく、この人が奮闘すればするほど、事態は雪ダルマ式にとんでもない状況を迎え、ひょっとして、これは新手のギャグなのかなと思うほど、痛快で面白い一作になっております。この小説は、まだ未読の方がおりましたら、是非ご一読願えればと、心から祈念するところであります。

 そして、巻末で編書をきっちり締め括ってくれるのが、こちらも英国SF小説の大家、キース・ロバーツの力作自動車ホラー、「スカーレット・レイディ」です。意志を持つ機械というのは、立派な怪物の一種であると、この編書では位置付けられておりますが、この小説の自動車の忌わしさは相当なものです。私はこんな車には、絶対に乗りたくありません。あまり書きますとネタバレになるのであれですが、自動車全体どころか、部品の一つ一つまでが周囲に災厄をもたらす辺り、相当強烈な“意志”を持った自動車です。また、主人公の職業が自動車修理工というのが実に秀逸な人物配置で、私は疎いのですが、作中の大半を占めるメカニック描写を交えながら、修理工の観点から見ますと、この異形の自動車の異形ぶりが、より一層際立ってくるという、読み応えたっぷりの力作に仕上がっております。

 怪物はパターンをカテゴリ化してしまいますと、おそらく究極的には十指に満たないと思いますが、大事なのはあくまで描き方とツイストであると、読みながら再確認させて戴きました。そういう意味では、カテゴリの少なさとは無縁に、今後も素晴らしい怪物ホラーを生む余地はまだまだあると思われますし、私も「犬と老人」という短編でけっこうしつこく怪物を描いたつもりですが、まだまだ全然足りていないと思うのが本音です。
 実は「犬と老人」は、「怪物がバリバリ人を喰いまくる」お話にしたかったのです。結果はそうはなりませんでしたが、今度こそそういうお話を思い付きましたので、しっかり下準備をして、いつか書いてみたいなという意欲を触発された読書体験でもありました。私にはSFマインドは皆無ですが、手持ちのホラーマインドで、何とかこの怪物をものにしたいと思っております。

ロアルド・ダール編「ロアルド・ダールの幽霊物語」

20070108195529[1] ロアルド・ダールの幽霊物語
 L・P・ハートリー他
 ハヤカワ・ミステリ文庫






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 やっと同人誌イベントも終わり、執筆も一段落しましたので、久々に更新します。
 著者のロアルド・ダールという人ですが、「あなたに似た人」など、捻りの効いた、所謂「奇妙な味」の作品を数多く残した重鎮です。ダールは無数の過去の怪奇小説の短編群から、1話完結のテレビドラマに仕立てる為に名作を選出しましたが、結局はドラマ化の企画自体が頓挫。残されたラインナップから、十四編の怪奇小説を再選出したアンソロジーになります。
 ダールは古今の名作と呼ばれる短編を七百編以上読み漁り、「恐怖を与えるもの」を基準に、厳しい採点方式で作品を選出したその成果が、本書になるそうです。厳しく選出されただけあって、さすがに全体的に質の高い、優れた怪奇小説のアンソロジーになっていると思います。

「恐怖を与えるもの」を基準にしますと、下記の二点の傾向が強くなることは、どうしても否めないようです。まず最初に、大半がどこかで既に選出された名作中心になってしまうこと、次に、大半が幽霊譚になってしまう点です。とうの昔にホラーは様々に細分化し、必ずしも怖さだけを追及するものではなくなったのは、誰しもが何となく認識している事柄かと思いますが、こと真面目に怖さを追及し始めますと、その門は存外狭いのかな、という印象を読みながら受けました。やっぱり怖いとなりますと、私たち人間と同じ姿ながら、異界の存在である幽霊に帰着せざるを得ないのでしょうか?かつてのポーやラブクラフトなどのように、新たな恐怖像が更新された歴史は、確かに過去にもあったのですが、しかし、それが本当に怖いのかと考えますと、そこは個人的主観も含め、色々と考えさせられるものがあると思います。

 また、このアンソロジーの編者のダールらしいところは、幽霊譚の中でも捻りの効いた作品が多いところかと思われます。その典型的な例が、モダンホラーの代表的な作家、L・P・ハートリーの「W・S」かと思いますが、見知らぬ他人から届いた絵葉書、という他愛のない出だしから、気付きますと事態は異様なものになっているという、ハートリーの技巧が冴えた作品になっています。
 「怪奇小説傑作集2」にも既訳のある、イーディス・ウォートンの「あとにならないと」や、老婆の奇妙な習性が最後に一息に明かされる、Ex-プライベート・Xなる変なペンネームの小説家(A・M・バレイジの変名)の「落葉を掃く人」なども、それぞれに一工夫が凝らされた小説だと思います。

 ここから先は個人的見解になりますが、特に読み応えがあったのが、下記の二作です。
 三兄弟、全員怪奇小説に手を染めたベンスン兄弟の次男、E・F・ベンスンの「地下鉄にて」は冒頭から、有限である時間と空間は想像ができない、という宇宙認識から端を発し、その過程の中で徐々に霊体が実体化するという、今読んでも十分に面白く、かつ霊体が具現化する描写も堂に入った、実に素晴らしい短編です。不勉強にして私は、E・F・ベンスンの小説はあまり読んだことがないのですが、名作「いも虫」にしましても、一筋縄ではいかない奇想溢れる小説で、まずアイデアが何よりも素晴らしい小説家だと思います。ほんと、キングの対極のような小説家です。
 個人的に最も印象深かったのが、この選集で最も尖った小説家、ロバート・エイクマンの「鳴りひびく鐘の町」です。このエイクマンという人は、従来のホラー作法からは大きく逸脱して、怪異の原因が分からないばかりか、その怪異が本当にあったことかすら疑わしい、といった独自の婉曲的表現に辿り着いた人です。寂れた土地に新婚旅行に来た夫婦の一夜を描いたこの作品は、エイクマンにしては実に真っ当な幽霊譚ですが、メインアイデアの馬鹿馬鹿しさは特筆ものです。よくこんなアイデアで書くなあ…と思いますが、ところが!それもエイクマンの筆にかかりますと、土地の情景、怪し過ぎる住人たちの描写など、エイクマンのいいように、読者は徐々に不穏な領域に引き込まれてしまいます。ここではクライマックスは明かしませんが、かなり壮観です。一種の奇想に、見事に骨太な実感を与えられるエイクマンの筆遣いには、ほんと痺れました。こんな自在な筆さばきができたら、ほんと執筆が愉しいだろうなあ…と羨むような筆遣いです。

 さすがに選ばれた全ての作品が怖いと思いませんでしたが、私見ですと、「徐々に怪異が近付いてくる(或いは露わになる)」パターンの作品は、怖くできる余地がまだあるのかなと考えておりまして、このパターンの作品が多かったように思われました。典型的なのは先のハートリーの「W・S」と、シンプルながら怖い、ローズマリー・ティンパリ―の「ハリー」辺りでしょうか。
 本当に怖さを追求する際に、この本が座標軸になるとまでは言い切れないと思いますが、思い返して考えるには十分な、素敵なアンソロジーだと思いながら読ませて戴きました。
 

カーステン・ストラウド「ナイスヴィル 影が消える町」(上下巻)

20070108195529[1]20070108195529[1] ナイスヴィル 影が消える町(上下巻)  
 カーステン・ストラウド
 ハヤカワ文庫






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 このカーステン・ストラウドという小説家ですが、カナダ人で、「狙撃警官キーオウ」など、主に警察小説を書いてきた人だそうです。その彼が始めて書いたホラー小説が、今回紹介するこの「ナイスヴィル」で、このシリーズは全3部作になっています。3部ともハヤカワ文庫から出版されています。

 ナイスヴィルとは、作品の舞台になっている、アメリカ南部の架空の町のことです。ナイスヴィルは、全米の平均の5倍もの行方不明者が出る町でした。この小説の序章は、不可解な状況で行方不明になる、ある少年の捜査の顛末から始まります。そこから長い本編が始まるのですが、話は急に1年後に飛び、序章の少年の行方不明の事件以外にも、大小様々な事件を挟みながら、主人公の警官たちが、ナイスヴィルという町に潜む、葬られた歴史に徐々に迫っていく――というのが、お話の骨格になります。

 読んで驚かされるのが、序章と本編の落差の大きさです。序章は少年の捜査を続けるうちに、通常ではあり得ない不可解な状況が示されるという、真っ当なホラー的展開を迎えますが、続く一年後では、いきなり銀行強盗犯を追うパトカーを、共犯者が狙撃するシーンから始まります。いきなり犯罪小説そのものの展開になり、読んでいて、「あれ?」となります。以降、続く本編も、完全に犯罪小説色の方が強く、悪党たちが互いを出し抜く丁々発止のやり取りが延々と描かれ、ホラー的要素はあくまで添え物といった印象です。普通、ホラーを謳うなら逆のバランスで然るべきところを、まるでエルモア・レナードの世界を読まされているような気分にさせられるところが、この小説のけったいな点です。

 
 この手のジャンルミックスにも、様々に噛み合わせがあると思いますが、少なくともこの小説を読む限り思うことは、猥雑な犯罪小説とホラーの噛み合わせは極めて悪い、ということです。犯罪小説では、たいていの犯罪者は、ハードで視野の狭い自分の境遇をいかにリアルに生き抜くか、という現状認識になりがちですが、この身も蓋もない生活に根ざしたリアル感と、融通無碍を基調とするホラーの世界観が、全く相容れないのです。「身近な幽霊より、身近な殺し屋(明日の破産)の方が怖い」と言われれば、確かにその通りかも知れませんが、そうなるとたいてい身近でリアルな墜落の方が、どうしても説得力を持ってしまう…そういうことだと思います。

 著者は、自らが得意とする犯罪小説や警察小説の世界に、ホラー的世界観を持ち込んだら、きっと面白いに違いない、という考えが元にあって、このシリーズを書き始めたと、私は勝手に想像しますが、もう少しその結果について考慮して欲しいと思いました。批判を承知で言いますと、この著者にはホラーへの適性がないと感じられます。上手く言えませんが、ホラー小説には、ホラーをホラーたらしめる雰囲気や香気のようなものが、否応もなくあると思います。型通りにホラーのルーティンを踏襲すれば、ジャンル分類上、それは確かにホラーのカテゴリには入るのですが、それはあくまで型をなぞっただけであって、この小説にはそれを成立させる核が欠落しているように、私には感じられました…この小説を読みながらずっと考えていたのは、ホラーをホラーたらしめる何かについてでした。それが上手く言えれば、こんなにいいことはないのですが。作中の登場人物の(或いは読者の)リアルな現状認識を覆す、非論理的(超常的な)な忌わしさを、ある種の皮膚感覚として描き得るのか…それだけでもないと思いますが、あくまでこういう部分がホラーとしての基調になるのではないかと、私は思います。

 今回、私はかなり批判的に書いてますが、当ブログはホラー小説の紹介サイトではなく、個人的主観を綴ることを主旨としていますので、ホラーについて自分なりに考える契機として、今後も中には批判する小説があるかと思いますので、一応ここで述べておきます。

 この著者が全くホラー向きでない、もう一つの理由として、作中の登場人物の大半が、または親戚や友人を含めても、警察関係者ばかりなのです。私の日常では、警察関係者の親戚はいませんし、ご親族に警察関係者がいる友人が一人いるくらいです。本当にこの著者は、そういう世界に近い環境にいる人なのだということが、こういう部分から分かります。でしたら、素直に自分の資質を発揮できる、そういう世界の小説に邁進した方が良かったのではと、読みながらずっと思っていました。因みに犯罪小説として見た場合、私はこの分野に詳しくなく恐縮ですが、展開は山あり谷ありと起伏に富み、その人種のハードな世界観もよく描かれていて、そこは愉しく読ませて貰いました。因みに、私はこの続きは読まないと思います。

ウェルウィン・W・カーツ「魔女の丘」

20070108195529[1] 魔女の丘
 ウェルウィン・W・カーツ
 福武文庫






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著者のウェルウィン・W・カーツは、カナダの小説家で、児童文学を中心に書いているようです。
このホラー長編も、児童文学として書かれたものだそうですが、
巻末の金原瑞人の解説にもある通り、児童文学の中では読み応えのある、思わぬ拾い物といった佳作です。

お話ですが、英仏海峡に浮かぶ、ガーンジー島という孤島に旅行に来た、アメリカ人の父と子が、
島にいる父の友人の家に逗留しますが、家の裏の丘には怪しげなストーンヘンジがあり、
やがて、村には未だ魔女信仰があることが、次第に明らかになってきて…という内容です。

児童文学ということもあり、十四歳のアメリカ人の子供を主役にした、この小説ですが、
極めてオーセンティックな筋立てながら、堅実な筆力があり、思わず引き込まれます。

ホラー的な部分で主軸になるのは、本当に魔女なんているのか、という常識の壁との溝と、
いるとすれば一体誰が、という疑心暗鬼です。
主人公が信じられるのは、逗留先の一つ下の娘だけで、自分の父も理論で、主人公を説き伏せようとします。
手堅い筆運びで、著者は主人公をじわじわと追い詰めにかかります。

子供を主役にした場合、より周囲からの理解を得るのが難しい為、孤立状態に追い込むのに適していますが、
この小説は、そこに常識感の異なる人間を何人か置いて、現状認識にも揺さぶりをかけてきます。
これは、今更魔女なんてくだらない、という読者の方には、割合効果的な手法だと思います。
そもそも主人公自体が、ずっとそういう常識の壁に、自分の直感を阻まれ続ける訳ですから。
超常現象的な事態はなかなか起きず、見張られている感覚が徐々に強まるような、抑えた筆致が、
児童文学でありながら、なかなかに渋く、これはこれで良いと思います。
また、児童文学らしい、主人公の成長物語の側面も、しっかり描かれていて、
一つ下の娘との交情や、父を越えて自立する瞬間も描かれていて、読後感は風通しの良い感じです。

また、作中には「古アルバート」という、古文書が出てきますが、
ネタバレになるので詳細は書けませんが、この書物の趣向がなかなかに面白いです。
真相が分かった時に、「あ、なるほど、それで作中に、あのアイテムがずっと出ていたんだ」という、
複線のさりげなさも、堅実に効果を上げています。
(読んでない方は、何が何だか、という感じで恐縮ですが)

ぶっちぎりの傑作とは言えませんが、暇潰しで読む程度なら、十分お釣りがくる小説ではあると思います。
最近こんなものを読みました、ということで、こうして挙げさせて戴きました。
渋い!

タニス・リー「パラディスの秘録 死せる者の書」

20070108195529[1] パラディスの秘録 死せる者の書 
 タニス・リー 
 創元推理文庫






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ダークファンタジーの女王こと、タニス・リーが、1988年から93年にかけて発表しました、
全四部の連作集「パラディスの秘録」の、三冊目に当たる短編集です。
「パラディスの秘録」は、現実のパリを下敷きにした架空の都市、パラディスを舞台にしたシリーズで、
この短編集には、パラディスの様々な時代や場所を舞台にした短編が、八篇収録されています。
私は、ファンタジー色の強い作品は、これまであまり手が延びませんでしたが、完全な食わず嫌いでした。
この本を皮切りに、「パラディスの秘録」シリーズは、全て読もうと決めました。

この短編集ですが、各短編の間に、誰とも知れない語り部が、
パラディスにある墓の一つひとつを紹介する短文が、挟まれています。
つまり、ここに出ている作品の全てが、既に死んだ人を描いた作品になっています。まさに、「死せる者の書」です。
各作品はバラエティに富んでいますが、パラディスという都市が、普段私たちが住む現実よりも、
生と死の境が近い(それに怪異も)という、モノトーンを基調にした、ある種の共通の空気感が感じられます。
作品のコンセプトとして、実に秀逸だと思います。

そもそもが四部作でもあり、まだ未読ですが、おそらく他の作品にも、作品ごとに仕掛けがあるのでしょう。
大枠は非常に構造的ですが、実際に小説を読んでまず感じるのは、タニス・リーの類い稀なる、言葉を紡ぐ力です。
こう書くと当たり前で恐縮ですが、小説は単に、物語を語るだけのものではないわけでして、
小説は読み進めるうちに、読者の頭の中に、その世界の肌触りや、登場する人間の感情などが、様々な色合いを帯びて、
どっと流れ込んでくる――そういったところに、読むことの愉しみと妙味があるように、私は思います。
単に物語を語る為に、効率よくお話を伝える文章と、タニス・リーの紡ぐ言葉には、そもそも言語の組成が違うと感じます。
とはいえ、一方では、やっぱり物語を伝えることも必要でして、ある物語を伝えながら、文章の煌めきがまるで衰えない、
そこに、タニス・リーの紡ぐ言葉の強さがあると感じました。
こういうことは、もう他人に真似のできる領域ではないです。
色彩豊かで、淫靡なのに、貧しい女性の素朴さを描かせると実に上手い――文章を目で追うだけで堪能しました。

肝心のお話ですが、これだけ幻視的な文体があれば、いくらでも夢幻的な展開だけで押し切れそうですが、
どの作品にも、一応オチらしきものが付いているのが、おや、と思ったところでした。
「世界の内にて失われ」という、素敵な題名の作品など、まさに幻視のビジョンが作品の大半を占めて、圧巻なのですが、
最後で突然、主人公が巨大な鳥に攫われて宙吊りになる、すごい展開を迎えますが、
何でこんなことに…と思って読んでいると、それがオチに繋がるという、
いや、むしろ鳥に攫われないと、オチが成立しないという、オチの成立に目を剥くような作品もありました。

単純にオチに限って言いますと、タニス・リーより上手い小説家は、幾らでもいると思いますし、
それらは、基本的に手続きが、もっとスマートだと思うのですが、タニス・リーの小説のオチの不可思議さは、
それが展開主導ではなく、ビジョン主導で湧き出たものだから、という気がします。
そして基本的にファンタジー小説ですので、展開による話の繋ぎよりも、イメージの繋がりが優先される為、
イメージの接ぎ木が、作品によっては、例えば鳥に攫われる、というすごい繋ぎに変わるのだと思います。
このような、ある種の強引さも、他の小説では、なかなか味わえない類の感触だと思いますし、
そういったところにも、この小説家の独自性があると思い、私は愉しく読ませて戴きました。
いずれにしましても、オチを云々する小説家ではないですし、まず何よりも、文章を堪能する小説家だと思います。
読みながら、しばし溜息が漏れるような、素敵な読書体験でした。

澤村伊智「恐怖小説 キリカ」

20070108195529[1] 恐怖小説 キリカ
 澤村伊智 
 講談社






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以前、記事をアップしました「ずうのめ人形」の著者、澤村伊智の三作目のホラー小説になります。
今作は、「ずうのめ人形」とは、全く違った恐怖に挑んでいて、「ずうのめ人形」とは異なった面白さと、
「ずうのめ人形」にも共通する、この著者の資質的な面白さ(怖さ、と言ってもいいと思いますが)が混在した、
非常に面白い小説でした。本当にこの著者は、何を書いても大丈夫なんだと、意を新たにさせられました。

前作と共通する、著者ならではの面白さですが、まずはやはり何と言っても、展開の運び方の面白さだと思います。
しかもこの著者は、その筋運びの随所(特に物語の転換するところ)に、ある種の叙述的な仕掛けを用いてくるので、
この面白さを書くと、単純に未読の読者の方には、ネタバレになりますので、詳しく書けないのですが…。
ある種、映画的と言ってもいいくらいの構築ぶりですが、一方、叙述的な仕掛けは、小説だからこそできることでもあり…。
この辺りの匙加減が、ちょっと他の小説家にはない、著者独自の強みという気がします。
また、既存の他者の小説を大きく取り上げる、という手法は今回も健在で、それをより堂々と推し進めています。
これもネタバレに相当しますので、詳細は控えますが、「ずうのめ人形」で、個人的には感じた違和感どころか、
今作では、「え!ここまでやるの?」という感じで、これには素直に驚きました。
何事も突き抜けるくらいに、堂々と推し進めると、それは何かしらの効果があるものだと、改めて思わされました。
(ちょっと今回、ネタバレを回避するあまり、何言ってるのかさっぱり分からん、という感じで、大変申し訳ないですが…。)

で、今作で、著者が新たに挑んだことですが…。
これこそ詳細な説明をすると、完全なネタバレになってしまうのですが…。
これは述べても問題ないかなと思いますので、簡単に書きますと、今作で著者が挑んだのは、メタフィクションの手法です。
何しろ冒頭が、著者自身が、「ぼぎわん」(後に「ぼぎわんが、来る」に改題)で、
日本ホラー小説大賞の、大賞受賞の告知を受ける場面から始まりますから。

余談ですが、私は残念ながら、「ぼぎわんが、来る」を読む前に、今作を先に読んでしまいましたが、
少なくとも、この小説に関しましては、「ぼぎわんが、来る」は、先に読んでおいた方がいいかと思います。
「ぼぎわんが、来る」執筆の裏話がかなり出ますので、先に読んだ方がより面白いと思います。

話を戻しまして、メタフィクションですが、メタフィクションで思い出すのが、以前記事を書きました三津田信三ですが、
三津田信三のメタフィクションは、主に話の導入部と、その小説の話者(主に一人称の口語体)を設定する為に、
用いられることが多い印象ですが、
今作でのメタフィクションは、著者自身の身近な現実と、作中の不穏な創作の、虚実の皮膜が次第に曖昧になり、
現状認識に揺さぶりをかけるといった、従来型のメタフィクションで多く用いられる手法になっています。
このような入れ子構造は、複雑化すればするほど、その入れ子構造の構築自体に、
小説の力点が向かいがちな側面があるかと思われますが、この小説の素晴らしいところは、その入れ子構造が、
あくまで、この小説が目指す恐怖を、より鮮明化する為に用いられていて、主軸がブレていない点だと思います。
そういった手法を主軸にして、今作が目指した恐怖は、はっきり作中で提示されていますが、
それは書いたらあかん、と思いますので控えます。興味のある方は、是非お手にお取り下さい。

私は小説を読みながら、この著者は一体どうやって、このお話を創っていったのかなと、
真偽のほどはともかくとして(多分、偽の方が遥かに多いと思います)、自分なりに想像するのが好きです。
では、この小説はどうだったのかな、とも考えてみました。以下は、根拠不明の完全な憶測になります。
まず、手法が先か、主題(この場合、今作が目指した恐怖の形)が先か、ということがあると思いますが、
今作の場合、私は主題が先にあって、それをいかに伝えるかということで、メタフィクションがきたのでは、と思いました。
このような、ある主題(必ずしもテーマとは限りませんが)が軸にあって、それを狙い通りに伝える為に、
基調の手法や、お話の展開や、ディテールを決めていくというのは、実に王道的な、物語の創作作法だと思います。
作法は王道でも、展開の仕方や、ディテールの配置などが独特ですので、この著者の小説は面白い、
というのが、現時点での、私の勝手な憶測です。

「ずうのめ人形」では、伝播する恐怖を描き、今作では、また違った恐怖に挑んだのですが、
これは批判でも何でもありませんが、それを読んで私は、この著者は無数の引き出しがあるなあ、とは感じませんでした。
今作が目指した恐怖それ自体は、決して目新しいものではないと思いますし、他の小説家も散々やっています。
変な喩えかも知れませんが、今更スティーブン・キングに、「ネタが新しくない!」と、怒る人はまずいないと思います。
そうではなく、それをキングが書いた、ということの方が、大事なのだと思いますが、
私がこの著者は何を書いても面白い、と感じたのは、そんな感じがしたからだと思います。
主題が既存のものであっても、この著者なら、今まで読んだものとはまた違ったアングルで、それを見せてくれるのでは…。
そういう期待が、あるからだと思います。
同じ時代に、同じ国に生きているという、同時代性を感じる、素晴らしい小説家と出会えた、という気がします。

相沢沙呼「スキュラ&カリュブディス」

20070108195529[1] スキュラ&カリュブディス
 相沢沙呼 
 新潮文庫nex






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うかうかしている間に、気が付くとついに新潮文庫もラノベに参入です。
この分野には興味はあったのですが、一体どこから入って良いのかさっぱり分からず、
「おお、ホラーだ、なんか耽美らしい…」ということで、実は著者のことも分からず(すみません)、読ませて戴きました。

女子高生たちの間で蔓延する謎のドラッグ、喰い千切られた女子たちの死体、都市伝説的な人狼の噂…。
こうして見ると確かにホラー小説ではありますが、そこはやはりラノベというべきなのでしょうか、
通常のホラー小説とは、かなりお話の力点が違っており、私如き新参者には、そこが目新しかったです。

よくあるホラー小説だと、終盤まで真相究明が続き、主役級の誰かが犠牲になるのを、みんなで食い止めろー!
と奔走する、みたいな雄々しい展開になると思うのですが、この小説の場合は、著者の資質もあると思いますが、
真相究明よりも(勿論、真相究明もありますが)、作中の少女たちの脆くて危うい精神性や、
儚い結び付きの方に、より大きな比重が置かれています。
それがまた、少女たちの幼さ故か、一途に耽美(性と死)に没頭する傾向があり、雄々しさの対極にあるような、
ある意味では、非常に純化された夢を扱った小説なのだと、私は思いました。

純化という言葉は、理念化と言い換えてもいいかも知れません。
多分に自己憐憫的で、願望充足的で、紆余曲折はありながらも、最後にはそれが叶い、満たされる、
という意味での、理念化です。そこには、現実につきまとう、余計な夾雑物の成分が殆どありません。
作中の少女たちは、そのような時間と空間の中を、全身で生きている、そういうことなのだと思います。

唐突に話は変わりますが、昔、映画館で、島崎藤村原作の「破戒」(市川雷蔵版のやつ)を見ました。
映画の中で、自らの出自を、ひた隠しに生きてきた主役の教師が、
生徒に向かって、泣いて赦しを乞いながら、自分の出自を語る、というシーンがありました。
その映画では、教師はまさに「泣き濡れる」といった感じで、むしろ「濡れる」の方に、比重がかかってるんじゃないか…?
この小説の、少女たちの儚い交換も、ほんとにこういう感じなのです。

人体損壊の猟奇的場面と、少女たちの耽美的な行為と、真相究明を随所に挟みながら、作中の少女たちは、
他人との違いに怯え、人を求めながら拒み、縋っては突き離し、といったことを、延々と繰り返します。
詰まるところ、この小説が理念としているのは、他者と異なったまま同化したいという、矛盾を抱えた承認欲求です。
この心的なプロセスに共鳴できない(肌に合わない)読者は、この小説を読んでも、
「意外とグロかった」「意外とエロかった」ということ以外に、何も得るところがないように、私には思われます。

ホラーの本旨は、勿論、読者に恐怖を与えることですが、その中にある様々な方向性を、私は許容したい考えです。
よく言われるようにホラーには、思春期の性の通過儀礼のシミュレーション、といった側面もあると思いますし、
今やいい歳こいてしまった私如きには、こういう時間が止まったような感じ、といいますか、
むしろ、このまま時間が止まっていてほしい、という儚い夢の時間の手触りが、何だか懐かしくもありました。
私は、このような自己否定に端を発した、自己憐憫という感情は、とても日本的な感情だと思います。
海外にも、ヤングアダルト向けのホラー小説は、かなりの数があると思われますが、
この小説のような、こうまで承認欲求の成就に特化した、ウェットな手触りの小説は、なかなかないように思われますし、
これも、今の日本の文化土壌が、独自に生み出した何かのように、私には思えました。
また、作中の少女がアニメばりに、みんな特徴的な美女ばかりで、そういう部分にも、独自の歪つさがあると思います。


澤村伊智「ずうのめ人形」

20070108195529[1] ずうのめ人形
 澤村伊智 
 角川書房






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デビュー作の「ぼぎわんが、来る」が大好評だった、日本ホラー小説界期待の新人、澤村伊智の第二長編です。
私は初めて読みました。これはまたすごい人が出たてきたなあ、というのが素直な感想で、
評判通り剛腕といいますか、非常に地力の強い小説家だと思いました。

この小説の地力の強さは、様々なものを含んでいるように思われました。
まず、作中に出てくる存在の問答無用さです。
遭遇したら必ず死ぬ、逃げようがない、というのはまだ既知の範囲かと思うのですが、すごいのはその規模です。
数量で換算される、事態の尋常でなさというのは確かにあるなあ、と読みながら、気付かされた感じがありました。
特に出だしが、ごく身近な心霊実話テイストから始まりますので、なおさら効果的だと思います。
次に、展開の自在さです。むしろ、地力の強さを感じさせるのは、こちらの方かも知れません。
この小説はホラー以前に、物語としての牽引力が相当に強いと感じました。
視点の頻繁なスイッチ、仕掛けられた幾つもの複線、一端読者をミスリードに導いておいて、すぱっと解決する鮮やかさ、
作中で事柄が示されるディテールがいちいち秀逸などなど、物語を転がす手腕が実に闊達です。
私は個人的には、どちからといえば、構築的ではない小説の方が好みですが、
この小説を読みながら、次々と作者の手玉に転がされるのが、実に心地良かったです。
そういう意味では、この小説家は、本来的な意味での、娯楽小説の王道を行くスタイルだと思います。
これだけ書ければ、今後この著者は何を書いても大丈夫かな、という気がしました。

この小説全体で言及されるのは、ある都市伝説についてです。
ある都市伝説の原因究明が物語の骨子で、そこで剛腕のリーダビリティが発揮されるのですが、
私が読んで面白かったのは、都市伝説自体の成立と解釈が、延々と登場人物の対話を通じて考察される点でした。
ここで著者は、非常に面白い考えを述べています。
それは、都市伝説とは、怖い話が持つ、柱の二つのうち、片方だけに特化したものである、という考えです。
柱の一つは、その話自体が持つ「怖さ」だそうです。
そして、都市伝説が特化したもう一つの柱が、その話自体が広がること、それ自体が「怖い」、という解釈です。
ここで著者はご丁寧に、登場人物の抱くイメージとして、真っ白な日本地図に、話が広がった場所を赤くして、
それが日本全土を覆う、という噂が伝達する形を、わざわざ可視化までしてくれます。

例えば、従来の心霊実話や昔の怪談話では、基本的に幽霊は恨みを残すから幽霊になるのであって、
逆に考えれば、恨みのない人間には、何の害もない、という考えになるのですが、
このような都市伝説的な広がりをする怪異には、恨みのある無しは、もう何の関係もありません。
どんな理由でも、一端聞いたらもうアウト!こういう無差別的に降ってくる恐怖です。
この小説の怪異の問答無用さは、この災いが及ぶ伝播の方法に、大きく拠るところがあるのですが、
実は、その問答無用の伝播の恐怖については、私たちはもっと以前に、別のまた大ヒットした小説や、
かつて世界を席巻した、一連の優れたJホラーなどで、既に手触りを知っているはずです。
この小説でも、かつて日本中を席巻した、ある小説が大きなキーワードになっていますが、それは読んでのお愉しみで…。

思えば、このような、恐怖に関する様々なマテリアルな工夫や、恐怖の仕組みの徹底的な見直しは、
二十世紀末に、むしろ小説よりも映画の方で、活発に行われていた時期がありました。
この小説は、そういった一連のムーブだったJホラー以降の、二十一世紀の紛れもない、
国産ホラーの新たな産声だと、私は読みながら感じました。
私も世紀末にJホラーを掘っていたこともあって、一端は断絶してしまったかに見えたその潮流が、
実は内部では、地底の溶岩のようにまだ滞留していて、時代は確かにここに再び繋がった、という感動がありました。
少なくとも、これは日本が独自に発展させ、日本でしか生み出せなかった、恐怖の系譜上にある小説だと思います。

一方、些事であるかも知れませんが、難癖を付けられかねない部分が、この小説にはあって、
それが、先に述べた、キーワードにもなったある小説が、あまりにも言及され過ぎている点だと思います。
言及どころか、作中の人物もそれを読み、それが物語にも反映されるほど、扱いが大きくなっています。
作中の中で、他者の作品について扱うのは、実に按配が難しいと私は思います。
些事と言えば全くその通りですが、作中の世界観を保障する大事な部分でもあると、私は考えますので、
私は読みながら、正直唯一引っ掛かった部分でもありました。
また、参考文献に、他者の小説がズラズラ並んでいるのは、初めて見ましたし、それが私には軽い驚きでもありました。

まあ、それはともかく…。
確かな物語作法を持ち、日本のホラー小説の延長線上の最先端に位置する自覚も、十分にあると思われます、
この小説家は、全く評判通りの小説家でした。私は早晩、この著者の他の小説を読みたいと思います。


三津田信三「赫眼」

20070108195529[1] 赫眼
 三津田信三 
 光文社文庫






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推理小説と怪奇小説の双方に跨って、旺盛な執筆活動を続ける、三津田信三の初のホラー短編小説集です。
私は推理小説は全くの門外漢ですので、何も言えませんが、この短編集は相当にレベルが高いと私は思います。
完全に私見ですが、今の日本のホラー小説は、三津田信三と小野不由美の二強体制は揺るがない、
というのが、今の私の認識です(他の小説家はどうなんだ!など色々あると思いますが、そこは私見ということで…)。

中でも三津田信三の怪奇小説は、いわゆる心霊実話テイストに完全に特化していて、彼の小説を読むと、
ホラーの中で、日本において未だにリアルでヒップなのは、やっぱり心霊実話なのかな、とも思ったりします。
三津田信三はその怪談の中でも、相当に技巧的で、かつ独自の理論体系を持った小説家です。
逆にある意味、ここまで自己理論化を徹底して、小説を書く小説家も稀だと思いますし、
①理論が効果的=怖い、②理論化されているから量産が利く、③理論化されているから作品にバラツキがない、
という、ホラー小説安打製造機の如き、すさまじい小説家です。
私の中では、もはや「安心と信頼の三津田信三ブランド」になっています。

じゃあ、その理論って何なのさ?
という方の為に、巻末で評論家の日下三蔵が、分かりやすく特徴をまとめてくれています。
下記、孫引きしますと、
①メタフィクション(自分の身近な近況から始まる)
②アナグラムの多用(落ちが判明する時に、よく使われますね)
③推理小説と怪奇小説の要素のブレンド
④作品間のリンク(幾つかのシリーズを持っていて、共通の人物が出るなど)
⑤擬音の多用(これは怖いです)
確かにその通りで、基本的にはこの方法論に従って、三津田信三のホラー小説は成り立っているようです。

これらの理論が、何故効果的なのかと考えますと、つまるところは作品世界に、いかにリアルな感覚を与えられるか、
という部分に大きく貢献しているからだと、私には思われます。
先の特徴をより補強する為に、特に優れていると思うのが、圧倒的な場所(空間)の造形能力だと私は思います。
現に所収の、「灰蛾男の恐怖」という短編の中で、
「怪奇幻想系の作品は、化物や魔物が出没してもおかしくない気配が漂っていれば、もう九割は成功したと言えます」
と、著者本人が述懐すらしています。
この言葉通り、「灰蛾男の恐怖」の冒頭の、場所の造形は本当にすごいです。こりゃ確かに何かでるわ、という感じです。
また、その空間を、場所の由来や歴史といった、舞台衣裳にまでレンジを拡げてみますと、
「よなかのでんわ」が顕著ですが、この小説には作中に、「赫村」だの、「墓村」だの、「人牛村」だの、
相当に気持ち悪い村が、次々と登場してきます。よくこんな次々と思い付くもんだなあ…。

場所にまつわる来歴などをいちいち想像することは、相当に骨だと思うのですが、
そこは三津田信三が、推理小説の書き手でもあることが、大きく影響しているように、私には思われます。
このような構築力の長け方は、推理小説を思考する側から来ているのではないか、と私は思います。
これこそ完全な私の想像ですが、おそらく三津田信三は、そのような構築に困るタイプではないと思いますし、
小説を書くに当たっての、先の展開の見通しも、非常によく見えている人なのかな、と想像したりします。

これらの理論体系は何も心霊譚に限らず、それ以外の怪物を扱っても成立することも、ある作品で示されています。
ネタバレになると悪いので、どの作品とは、ここでは控えますが、私などは、「なるほど!」と膝を打った次第です。
面白くて怖い以外にも、(特に私如き、自分も書く人間には)勉強になるとは、何て素晴らしい小説家なのでしょう。

三津田信三は他にも、「ついてくるもの」、「誰かの家」、「怪談のテープ起こし」などのホラー短編集を出版していますが、
どれも傑作です。何と外れがありません!…一体、何という小説家なのでしょう。
私は大好きな小説家ですので、気になった方がいましたら、是非お手に取って戴ければ、と思う次第です。




メラニー・テム&ナンシー・ホールダー「メイキング・ラブ」 

20070108195529[1] メイキング・ラブ 
 メラニー・テム&ナンシー・ホールダー 
 創元推理文庫






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アメリカの閨秀作家2人組のユニットによる、女性の描いたエロいホラー小説です。

つい先日ネットで知って驚いたのですが、片割れのメラニー・テムは、2015年に亡くなっていたようです。
謹んでご冥福をお祈り致します。
彼女は、かつて長編「深き霧の底より」が刊行された、短編の名手、スティーヴ・ラズニック・テムの妻で、
夫妻による共作短編も何作か翻訳されています。

前回紹介した、いかにも男性らしくフィジカルで、即物的なホラー小説の「インキュバス」と比べると、
こちらはいかにも女性らしい、ハーレクインがかった、情感に重きを置いたエロいホラー小説に仕上がっています。
お話ですが、孤独な女教師シャーロットに、頭のおかしな弟カメロンが、「完璧な恋人を創れる」と、
完璧な恋人を創造し…という、フランケンシュタインにも通じる、人造の生命もの(?)を踏襲した内容です。

概要だけかい摘むと、さして触手が伸びなさそうなところが、この小説を紹介する上での難点ですが、
ところがこの小説、非常に読み応えがありまして、実は半ば期待していなかっただけに、嬉しい誤算でした。
全編を通じて、派手な展開はほぼ皆無ですが、人間の内面の機微を、丹念に追っている為に、
実は派手な行為がないだけで、小説自体は起伏に富んでいて、常に揺れ動いている印象を受けます。

こう書くと当たり前で恐縮なのですが、まず登場人物の描き方が上手く、読みながら「あ、確かにこんな人いるわ」と、
読者が(共感ではなく)実感できるように描かれてあるのは、それだけで大したものだと思います。
抑圧的な母のせいで、同じ性格になり、変化を望みながら、同じくらい変化を畏れる主人公、
典型的な芸術家肌で、感情の起伏が激しく、奇行を繰り返し、後先を顧みない弟、
その弟に盲目的に惚れてしまい、警戒心がほぼ皆無でグルーピー的な、主人公の同僚など、
彼らの内面や振る舞いが、見事に描かれてある為に、後々「完璧な恋人」の異質な存在が、大きく生きてきます。

そして、その生命に創造に、何のロジックもない点が、いっそ清々しいくらいでした。
言わば、精神力で人間を創造するのですが、その掘っ立て小屋みたいなところに、花弁が舞い、音楽、匂い、光が満ち、
譫妄状態のような磁場の中で、それは形作られ、この小説は、このような場を描く力に、実に長けています。
理屈なんかなくても、描写で十分に伝わりますし、抑圧された夢が現実を浸食するような、危うい世界観が、
見事に描かれてあると思います。
その中で、ふいに湧き起こる官能があっても、何ら不思議ではないと思います。

あまり「完璧な恋人」のことに触れると、ネタバレになりますので、控えめに書きますが、
勿論、お話を抜き差しならない方向に導いていくのは、この存在の抱える謎です。
自然や生命の摂理に反した、この不自然の極みみたいな、理解し難い存在にすら、著者の筆は光を与え、
一切の内面描写がないにも関わらず、この存在の抱えるものが、想像できるように描かれてあります。
この創られた生命の抱えるものは、多くのSFでもそうでしたが、いつだって哀しみが付き纏いますね…。

また、全体的に抑制が効いた分、クライマックスの情景はかなり壮観です。見事な緩急だと思います。

というわけで、読み応えたっぷりのホラー小説で、このユニットの第2弾、「ウィッチライト」は、いつか是非読みたいです。
それにしても、惜しい人を亡くしました。このユニットでは、もう作品は読めないのですね…。

レイ・ラッセル「インキュバス」

20070108195529[1] インキュバス 
 レイ・ラッセル 
 ハヤカワ文庫NV






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この小説ですが、一言で言いますと、エロいホラー小説です(という割りには、さしてエロくもないのですが…)。
題名になっていますインキュバスとは、キリスト教圏の経典で記された、女性を誘惑する男の色魔のことで、
男性を誘惑する女の色魔をサキュバスと言います。
お話ですが、さるアメリカの田舎町で、次々と暴行された女性の遺体が発見され…というものです。

当然、題名にもあるインキュバスの存在が、作中で大きく浮上してくるのですが、
長編モダンホラーのセオリー通り、インキュバスの存在究明に、多くの筆が費やされることになります。
通常の、怪異の存在究明の方法としましては、おおよそ以下の感じだと思われます。
①科学的見地での状況検分。②古文書などを参照に、古来の伝説や風聞と事象の照合。
実際にこの小説でも、先の①②の双方で究明が行われます。

ネタバレになるので、詳しく書けませんが、①での法医学者の検死結果は、一読の価値ありと思います。
ものすごい状況ですから…。私は喫茶店で読んで爆笑しました。男性読者なら分かると思います。

話を戻しますと、究明の過程で、医者、警官、人類学者などが、喧々諤々と意見を戦わせるのですが、
この小説の特徴的な点は、怪異の存在を疑うあまり、それが背理法のドツボに落ち込んでいく点にあります。
「インキュバスがいるとすると、これこれの矛盾が生じる。故にインキュバスはいない」
「インキュバスがいないとすると、これこれの状況が説明できない。故にインキュバスはいる」
そんな難しい話でもないのに、何故にそんなややこしいことを…?

私は、解明の過程において、従来型の、「ただ単に信じ難い」という頑迷な否定から、
存在を何重にも否定して、存在の仮定自体疑わしくなる、という、新たな常識の壁の築き方が、
従来型の存在否定から、一歩前進した感があって、そこが面白いと感じました。
ここがより先鋭的になれば、それはまるで、ディックの悪夢のSF世界のようではないですか。
惜しむらくは、その背理法の応酬と、作中で起こる出来事が、あまり上手くリンクしていると思えなかったことです。
確かにそれもそうで、この小説は別に、現実認識の揺らぎが主題ではありませんから。

(以下、ネタバレ含みます。ご注意を!)




読むうちに、どうやらインキュバスは、普段は町で普通に暮らす人間なのですが、
興奮状態になると変身するらしい、ということが判明してきまして、
一体誰が…という、フーダニット的な展開になるのですが、その方向性が間違っている、と感じられました。

何故、こんな展開になったのかと考えますと、それはインキュバスの設定に失敗したからだ、と思います。
この小説でのインキュバスは、夜な夜な女性を襲う犯罪者となんら変わらず、
行動原理がまるで、男性優位主義を誇示するだけの、男の人間の如しです。
せっかくの色魔なのですから、内面的に(夢魔的に?)、町の女性たちを籠絡させる存在であった方が、
ホラーとしても面白い展開が望めたと思いますし、エロかったのではないか、とも思います。

作風は王道的な展開で、それなりに読ませるのですが、
伸びしろのある部分と、伸びしろを摘む部分の混在した、全体的には、ごつごつした印象の小説だと感じました。
最初に町の情景描写があって、そこには美女が多い、とつらつら紹介されていた時には、
何だか、設定が随分露骨だなあ…と、面白く感じましたが。
こういう設定一つを取っても、マチズモの思想が濃厚な、極めて男性的なホラー小説だと思います。

続けて次回、サキュバスではありませんが、女性の書いたエロいホラー小説を取り上げたいと思います。

ジョン・コリアー他「怪奇小説傑作集2」

20070108195529[1] 怪奇小説傑作集2
 ジョン・コリアー他 
 創元推理文庫






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この分野の登竜門とか、マスターピースとの誉れ高い、名アンソロジーの第2巻です。
第1巻は、19世英国の、伝統的な怪奇小説を中心としたラインナップでしたが、
第2巻は、英米(といっても、依然英国中心ですが)の、20世紀中期までの、モダンホラー集になっています。

伝統的な怪奇小説と、モダンホラーの主な違いにつきましては、巻末の解説で、平井呈一が見事に要約していますが、
ゴシック小説の様式から発展し、日常とは異なる空間や道具立てを設定し、そこで恐怖が訪れる怪奇小説に比べて、
日常生活のさなかに、切れ目を入れるように、いきなり恐怖を捻じ込む、というのがモダンホラーの主な手法だそうです。

実際に、第1巻と第2巻を読み比べますと、かなり異なった印象を受けるように思います。
第1巻は、その空間とか磁場の描写に力点が籠るせいか、全体として、重苦しく堂々たる印象を受けますが、
第2巻は、ふとした日常がふいに変転するソリッドさや、重苦しさの対極にあるような、婉曲的な軽やかさを感じます。

第2巻の中でも、F・M・クロフォードの「泣きさけぶどくろ」、フレデリック・マリヤットの「人狼」は、伝統的な怪奇小説で、
一冊の中でも両者の違いがよく分かる、素晴らしいセレクションになっています。
この2作を、モダンホラーの中から仰ぎ見ると、却って新鮮で、今の時代でこれを真似ても、成立しないんだろうなあ、
と何やら隔世の感を感じます。恐怖は、どの時代にあっても、時代に即した一過性のもので、後年幾ら真似ようとしても、
決してそのムードまでは再現し切れない、という大事な特性を、この2作が伝えてくれるように思われます。
どちらも、濃厚でムードたっぷりで、これもまた素晴らしいんですよね。

今回も全ての作品は挙げられませんが、私見では、とにかくサキの「スレドニ・ヴァシュタール」が刺さりました。
この小説は、作品全体がソリッドどころか、一文一文のレベルまでソリッドで、半端ではない切れ味の鋭さです。
後半、主人公の少年が、祈禱(というか呪詛)の誦句を唱え出すくだりなどは、文章の構築美の極みとも言うべきすごさで、
怖い以前に、何てカッコいい小説なんだ、と私は読みながら唸りました。いや、ほんと素晴らしいです。

その分、典型的な、モダンな怖さを堪能させてくれるのが、L・P・ハートリイの「ポドロ島」です。
お話は、船乗りして、題名にある孤島にピクニックに行くだけの、他愛のない出だしなのですが、
猫に餌をやろうと苦戦していた女性が、ふと「つかまえられなければ、殺してやるわ」と呟く辺りから、
徐々に怖さを増す婉曲表現が見事で、これを読むと確かに19世紀から、恐怖の様態は変わったのだと、痛感させられます。
ジョン・コリアーの「みどりの想い」は植物怪談の名作ですが、途中で視点が入れ替わる辺りに、妙なおかしみを感じさせる、
これもまた軽快さといった、モダンの特徴を感じさせる一作だと思います。

単に軽快さということで言えば、ヘンリイ・カットナーの「住宅問題」とか、ベン・ヘクトの「恋がたき」など、
米国の作家の作品の方が勝っているようですが、この頃の米国は既に各パルプ誌が、ジャンルの凌ぎを削る、
独自の文化様式を築いていた頃でもあり、そのせいか、純粋なホラーに留まらず、ファンタジーやSFなど、
ジャンルを横断する、「奇妙な味」といったテイストが、英国の作品に比べると強いように思われます。
私は自身が、「ウィアード・テイルズ」が好きなのにも関わらず、少なくともこのアンソロジーでは、
より繊細な婉曲表現に冴えを見せる、英国の作品の方が、深みがあり、読み応えもあったように感じました。

スティーヴン・キング「呪われた街」(上下巻)

20070108195529[1]20070108195529[1] 呪われた街(上下巻)  
 スティーヴン・キング 
 集英社文庫






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前回の、ブラム・ストーカーの「吸血鬼ドラキュラ」の記事の最後に少し記しました、
今一つの吸血鬼小説の決定打は、何といってもこの小説だと私は思います。
この小説は、吸血鬼小説の決定打であるだけではなく、モダンホラーの一定型を確立させた、記念碑的作品だと思います。
この小説のことはどれだけ褒めても褒め足りないほど、作品も素晴らしく、後世に遺した影響も絶大だと思います。

「吸血鬼ドラキュラ」から、「呪われた街」までは、約100年の開きがあり、その間に吸血鬼やドラキュラは、
誰もが知るところとなり、下手をするとパロディにしかならない状況であることは、誰もが把握していたと思いますし、
賢明な作家なら、吸血鬼を新釈を与えるなど、吸血鬼のパターン拡張の方に向かうところを、
ただ一人、キングだけが、本気で「吸血鬼ドラキュラ」に、真っ向勝負を挑んだのではないでしょうか?
(他にもそのような作品があったら、寡聞にして恐縮ですが…)
「吸血鬼ドラキュラ」に倣って、キングがこの小説で果たそうとしたことは、ガチで怖い吸血鬼の復権という、
その一点に尽きると思います。

で、この小説の吸血鬼ですが、本気で怖いです!
怖いのは、吸血鬼が凶行に及ぶ瞬間ではなく、そこに吸血鬼がいる…、という、この世ならぬものすごい瘴気です。
特に、二階に吸血鬼がいるのに、十字架を握りしめたまま、怖すぎて階段を登れない教師のくだりなど、
教師の恐怖感が、読んでいるこちらにも嫌というほど伝わってきます。何というキングの筆力!

突然ですが、フィクションでの怖さは、なるべく(主観や考え方などの)個人差が少ない方がいいと思うのです。
万人を怖がらせるのは不可能だとしても、最大公約数的に怖がらせられれば、それは成功している、という考えです。
この小説の吸血鬼が怖いのは、登場人物の怖がり方が、尋常ではないほどリアルだからです。
密閉下でパニックが伝播するように、恐怖も上手く描ければ、それはちゃんと伝播すると、私は信じたいです。
そういった意味でこの小説は、フィクションでできる怖さが、正当な手順で、ほぼ完璧に描かれていると思います。

そして、その恐怖をリアルなものにする為に、キングが取った手法は様々にありますが(固有名詞の氾濫など)、
中でも、最も効果的で、魅力的な方法が、現代(といっても、今からもう40年以上前ですが)の、
アメリカの南西部の田舎町に、吸血鬼を引っ張り出してくることで、これで、一つの田舎町が吸血鬼に侵略されて、
人知れず崩壊する…という、ホラーの舞台設定としては、これ以上ないほど魅力的な舞台装置を作りました。
また、これを何人かの主要人物はいるものの、三人称多視点で描いたことが、また効果抜群だったと思います。

平井呈一が、モダンホラーについて、「現実にいきなり異世界の裂け目を作る」と評したことがありましたが、
極めてリアルに描かれた田舎町を浸食する吸血鬼とは、異世界の裂け目の最たるものだと思います。
実は私は、キングの最大の功績は、怪異で滅ぶ街という、モダンホラーの一定型を確立させたことだと思います。

「吸血鬼ドラキュラ」に真っ向勝負を挑む決意と、それを成立させる地力は、誰もが持てるものではないと思いますが、
吸血鬼ではない、オリジナルの怪異で、一つの街を滅ぼすことなら、自分にもできるかも知れない…。
キングの意図かどうかは別としても、後進のホラー作家たちに与えた希望もまた、非常に大きかったように思います。
私は個人的には、クトゥルーもののフォローを読むなら、滅ぶ街の作品の方が読みたいですし、
自分でもいつか書けたらなあ…と、今でも、夢見るような気持ちで思うことがあります。

また、昔は、古い吸血鬼映画などを見ていますと、とっくに原因が吸血鬼だと分かっているのに、
ああだこうだと原因を推測する、長いくだりがよくあって、それには半ば閉口していたことがありましたが、
この作品を読んで、いや、それは(作品によっては)やはり必要なんだ、と考えが変わりました。
こういうことは、とても地味なことですので、さほど印象に残らず、看過されがちな部分でもあるかと思いますが、
先にも述べた通り、この作品が書かれた時点で、既に吸血鬼は扱い次第で、パロディにしかならなかったわけで、
吸血鬼の実在を保障する為に、人物たちの「そんな馬鹿な、信じられない」という、常識の大きな壁との対立は、
私は、本気で恐怖を求める作品であればあるほど、避けては通れない手続き、みたいなものだと思います。
このことは、街の被害が甚大になれば、医学的措置や、警察の介入が避けて通れないのと同様に、
作品におけるリアルを、根底で支える部分になると思います。この小説も、勿論その点は丹念に描かれています。

ただ闇雲に「吸血鬼ドラキュラ」に挑むのではなく、様々なアイデアと、キング自身の資質が噛み合ったこの作品は、
下手をしたら、「吸血鬼ドラキュラ」以上に、後進にとっての、吸血鬼小説の高い壁になったようですし、
かのクーンツも、どこかで、「呪われた街」に挑むのは、賢明ではない」と述べていたようでした。
ところが…。この小説から30年近く経って、今度はアメリカでもイギリスでもなく、何と、我が国(!)から、
更なる超弩級の吸血鬼小説が出るのですが、この本、あまりにぶ厚くて、読み直すのに時間がかかりますので、
また機会があれば、後述したいと思います。







ブラム・ストーカー「吸血鬼ドラキュラ」

20070108195529[1] 吸血鬼ドラキュラ 
 ブラム・ストーカー
 創元推理文庫






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ホラーといえば吸血鬼!
…かどうかは分かりませんが、改めて読み直しました。お話はあまりに有名ですので割愛します。

吸血鬼といえばこの作品以前にも、レ・ファニュの「吸血鬼カーミラ」や、ジョン・ポリドリの「吸血鬼」など、
前例は既にあったわけですが、この小説がそれらの前例を越えて、何故吸血鬼小説の決定打になったかついては、
様々な要因があると思いますが、何よりの要因は、作者の本気度の高さにあったのではないか、と私は思いました。

吸血鬼は血を吸い、感染するなどの特性から、性的なものも含め、様々なメタファーを付与できますが、
根本にあるのはあくまで、それが死を侵犯し、周囲に死をもたらす禁忌に塗れた存在、という点にあったはずです。
吸血鬼は本気で怖いのだと確信し、この禁忌に抵触する恐怖、即ち、自分が生きながらにして死に穢される恐怖を、
ここまで骨太に、かつ仔細に描いた作品が他になかったから、この小説が、吸血鬼小説の決定打になったと思うのです。

実際、改めて読みながら、この小説での吸血鬼の存在は徹底して忌わしく、21世紀の今にも通じる、というレベルを越えて、
本気(殺気といってもいいと思いますが)で描かれたホラーは怖い、という真理を読者に伝えてくれます。

私が考えるホラー小説の妙味とは、馬鹿馬鹿しいと思いながらも読み進めるうちに、作者の迫真の筆遣いに引き込まれ、
「くだんねえ。しかし、ひょっとすると、もしや…」と、読者がそこに描かれた世界を、一瞬でもリアルに感じる、
その瞬間にあると思いますが、この点も、この小説は周到かつ念入りです。

読者がその作品をリアルに感じるには、まず、作中の人物が、それを信じる必要があります。
そこで、かのヴァン・ヘルシング教授が登場し、何人かの協力者に、吸血鬼を信じさせるよう延々と説得します。
読者に、19世紀時点で、既に十分に科学的で懐疑的な人物たちが、吸血鬼を信じざるを得なくなる過程を見せて、
その世界に対してのリアルさを、徐々に獲得させていく、という周到な戦略が、随所に用いられています。
恋人を救う為に、死体に杭を打たなければならないアーサーの苦しみと、それを伝えるヘルシングの苦悩は、
人間ドラマとしても、ある極点に達しており、この辺りの展開は素晴らしいとしか、言いようがありません。

また、この小説は、速記や、当時の先端技術(?)だった蠟管録音による口述日記なども用いた、
複数の人間の手記の寄せ集めから構成されています。これが作中にリアルさを与える為の選択だったことは、
まず間違いないと思うのですが、読みながら一つ気になることがありまして、特に後半に顕著なのですが、
どの人間も手記を執筆しながら、可能な限り正確に事態を記述することに、取り憑かれたように拘り出す点です。
文字通り、彼らは寝食すら忘れて、正確な記述に没頭し始めます。しかも執筆する全員が。
確かに、後半は吸血鬼との追跡劇の様相を呈してきますので、吸血鬼の行動を予測する為にも、
作劇としても、正確な記述は一応必須となっているのですが、それにしても鬼気迫る正確さへの拘りぶりで、
まるで吸血鬼よりも、記述において正確さを欠く方が恐ろしい、とでも言わんばかりです。

このオブセッションは、一体何なのでしょう?どの人物も等しく、その考えに支配されていることを考えると、
これはもはや作中の人物の考えではなく、作者本人の考えと見るべきでしょう。
勿論、私如きに真相など分かるわけもありませんが、このことについて、私はこう想像してみました。

作者は何年もアイデアを温め、ルーマニアの串刺し公をモチーフにするなど、入念に作品を練ってきたわけですが、
それでも、本当に吸血鬼の存在を、読者がリアルに感じてくれるか、そこに大きな不安が付きまとっていたと思うのです。
聡明な作者は、読者が吸血鬼の存在をリアルに感じるか、この小説が成功するか否かは、
そこにかかっていることを、知っていたと思うのです。
読者にリアルを感じさせる為に、作者が選んだ手法が、「正確な記述」にあったのではないか?
正確な記述へのオブセッションは、実は作者自身のオブセッションだったのではないか?これが私の想像です。

血液型を無視した輸血などは、今となっては陳腐化した科学的アプローチですが、作者は吸血鬼に信憑性を与える為に、
手記を用いたドキュメンタリータッチ、科学的見地、民俗学的見地など、およそ考え付く限りのあらゆる方法で、
吸血鬼のリアルさを、作品の中に実際に希求しています。

吸血鬼は絶対に怖いという本気さと、それを保障する為の、数々の周到な仕掛け。
これらが渾然一体となって、作品を読み進める読者に襲いかかってくるからこそ、
この小説は、吸血鬼小説の決定版になり得たのではないか、というのが、私が今回読み直して思ったことでした。
ところが…。この小説から100年近くを経て、今度はアメリカから今一つの、吸血鬼小説の決定打が登場します。
その作品については、また折を見て後述したいと思います。

那智史郎 宮壁定雄編「ウィアード・テールズ4」

20070108195529[1] ウィアード・テールズ4 
 ヘンリー・カットナー他 那智史郎 宮壁定雄編
 国書刊行会






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この第4巻は、黄金時代後期(1936年~1939年)の作品を収録したとのことですが、
あれ?また全体的にB級度が増した印象が…。

巻頭のロバート・ブロックの「暗黒神の神殿」からして、隠されたナイアルラトホテップの神殿には、人類の未来が壁画で!
と、派手に風呂敷を広げた割りには、この素朴な終わり方…。初期ブロックらしいB級作品です。

原形質の怪物を扱った、ソープ・マックラスキーの「しのびよる恐怖」では、
怪物を退治するには、怪物に取り込まれた時に、意志を強く持つことだとされるのですが、
この退治法は、フランク・ベルナップ・ロングの「千の足を持つ男」でも使われておりました。
細胞の塊に過ぎない原形質に、何故意志が通じるのか、また、それを是と当時は受け止めていたのか、
考えると何とも不思議な気がします。

「怪人悪魔博士」という作品は、題名通りの悪い人と、探偵との対決を描いた作品ですが、
この怪人、すごい能力をお持ちの割りには、動機が何ともセコく…。何というか、微笑ましい感じがします。
このシリーズはどうやら8作続いたそうですが、これは続きを読んでみたいものです。

中には、「悦楽の館」という、悪の催眠術師の姦計を、二人称の形式(!)で語る珍品もあります。

巻末は楽しみにしている、「闇からの侵入者」ですが、終盤手前に至って、ようやく周囲に災いが及び始め、
真っ当なホラー的展開を迎えます。そういう意味では、展開がかなり遅い部類のホラー小説とも言えますが、
この作品の場合、素朴な叔母の語り口調が実に心地良く、この泰然としたペース自体に特徴があると思います。

こうして居並ぶB級ホラー小説群を読みますと、B級精神というのは、整合性や作品の収拾よりも、
「とにかくこれが書きたい!」という獰猛な欲望の方を優先してしまった、ある種の冒険に近い試みなのかな、
などと考えながら、愉しく読ませて貰いました。中には、単に浅慮なだけ、という作品もあったようですが…。

A・ブラックウッド他「怪奇小説傑作集1」

20070108195529[1] 怪奇小説傑作集1 
 A・ブラックウッド他 
 創元推理文庫






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このアンソロジーは全5巻の、怪奇小説の名作集とも言うべき、国産ホラーアンソロジーのマスターピースです。
第1~3巻が英米編、第4巻が仏編、第5巻が独・露編のカップリングになっています。

この第1巻は、19世紀から20世紀初頭にかけての、英国の黄金期の怪奇小説を中心に収録した選集です。
改めて収録された作品を見ますと、正攻法の極みとも言うべき、ものすごい重量級のラインナップです。
しかも!これで終わらず、第2巻、第3巻と作品が続くところに、英米のずば抜けた層の厚さを痛感させられます。

今は21世紀のIT社会ですから、レ・ファニュの「緑茶」の合理的説明の部分や、ヘンリー・ジェイムズの心理小説の実践や、
ブルワー・リットンの「幽霊屋敷」の後半で、突如湧き起こる神秘学の問答など、今の目から見ると、
古臭い部分があることは確かに否めませんが、それが作品の面白みまで奪っているわけではないと思います。

この選集に駄作は1つもありませんが、中でもアーサー・マッケンの「パンの大神」が、私は一番好きです。
従来の幽霊譚とは大きく異なった、新たな恐怖を創造しようという、マッケンの意志が作中に漲っていますし、
マッケンの作品からは、他の作家にはない独特の、禁忌を土足で踏みにじるような、強烈な不浄の感覚を感じます。
この作品を読むと、ラブクラフトが、いかにマッケンに多くのものを負っていたかがよく分かります。
また、マッケンの物語を語る手際が非常に独特で、この作品では、それが絶妙の効果を上げていると思います。
どちらかといえば無骨な語り口の人ですが、いきなり違う人間から話が始まったり、複眼的にこの作品を捕えたことで、
関わる者全てに災いをもたらし、しかも所在の摑めない存在、という野放しの怪異の怖ろしさが、実に上手く描かれています。

全ての作品は挙げられませんが、他に気になった作品はと言いますと、
「猿の手」は、アイデア、展開、描写の三拍子が、ここまで見事に噛み合った作品は稀なほど、よくできた怪談ですし、
E・F・ベンスンの「いも虫」もまた、アイデアが非常に素晴らしい作品です。ハヤカワ文庫の「ハードシェル」に収録された、
ダン・シモンズの「転移」という作品が、私は大好きですが、それの元ネタになった作品です。
W・F・ハーヴィーの「炎天」について、解説で平井呈一が、「光り苔のようなかすかな燐光を放つその作品」と評したのは、
全く言い得て妙で、一瞬の切れ味の鋭さと、アスファルトの向こうに立ち上る陽炎みたいな、ある種の頼りなさが混じり合った、
何とも言い難い、不思議な読後感を残す作品です。

そして、忘れてはならないのは、アメリカ文学の大家ヘンリー・ジェイムズ(怪奇小説家とは言ってはいけない人)で、
この人が独自の心理文学の手法を、怪奇小説に持ち込んでくれたおかげで、
怪異を直接的に描写しないという、怪奇小説における大きな選択肢を、後進の作家たちに残してくれたのですし、
そこから、その考えを「朦朧法」として、より先鋭化させた、デ・ラ・メアみたいな人が出てきたわけですから。
彼の「エドマンド・オーム卿」は、恐怖の描写と真相解明に明け暮れる、従来型の怪奇小説とは、
大きく印象の異なるものですし、幽霊の所在から、ある娘と恋人の恋愛感情や、娘の母と恋人との共犯意識まで、
扱われている対象のレンジが広く、私には読み応えたっぷりの小説でした。

しかし、こうして見ますと、私が好きな国書刊行会の「ウィアード・テールズ」とは、あまりにレベルが違い過ぎるなあ…。

 
プロフィール

WORLD BEANS

Author:WORLD BEANS
ホラー小説専門同人誌、
「DAMMED THING」告知用ブログです。
活動状況はほぼ更新せず、大半は読んだホラー小説のことを、ぶつくさ書いてます。
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