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2018年の活動状況

 今年の夏に参加した某同人誌イベントを最後に、同人誌からは完全に身を引くつもりでしたが、これまで小説、表紙イラストの寄稿をしてくれた友人が一冊限定で同人誌の主宰を引き継いでくれることになったのを機に、今年は一冊しか刊行できなかったのでさして書くこともありませんが、同題の振り返りをしたいと思います。
 今後も同人誌を刊行したとしたら、実生活上の都合により年に一冊程度しか刊行できなくなると思いますが、折角始めたので活動は細々と続けようかなと、現時点では考えております。



 (おことわり)
 書いた小説の裏話をつらつら書いていきます。
 ネタバレにはならないと思いますし、そもそも頒布数が少ないので問題ないかとは思いますが、少しでも情報は入れたくないという、当誌をご購入された方がおられましたら、本誌を読んだ後に読むことをお薦め致します。



 昨年は見よう見真似で同人誌を二冊頒布し、途中までは今年も年二冊の刊行を想定していました。
 昨年末にTwitterを始め、同人誌界隈での様々な催しの存在を知ったのを機に宣伝の一環として、「Twitter300字ss公募用掌編」というものを幾つか、当ブログにアップしていました。当ブログの「創作」カテゴリに掲載されています。お暇な方がいましたらどうぞ。

 当誌がアメリカの怪奇幻想専門パルプ誌、「ウィアード・テイルズ」をモチーフにしていることは以前から述べている通りで、刊行すればするほど当然同じものに仕上がる訳もなく、むしろ「ウィアード・テイルズ」色は巻を追う毎に希薄になっていきましたが、あの雑誌には当時の社会情勢、文化圏、執筆者など、様々なものが不可避的に複雑に絡まった結果、あのテイストが産まれてきたのであり、幾ら表層だけを真似てもあの核心に近付くことは実質不可能ということを、通算三冊の刊行で身を以て知りました。
 今は以前ほど「ウィアード・テイルズ」への拘りもなく、この時代の日本に生きる私たちが書いたものが、必然的にそれとは異なる別の何かになる事実を自然に受け止めています。このことは執筆にも共通すると思っていて、例えば十九世紀辺りの古色蒼然とした(それ故に魅力的な)、怪奇小説のテイストを今の時代に再現するのは実質不可能に近い、といった事情と全く同一のことと考えています。 
 先に述べたことの影響か否かはさておき、今回も原稿を依頼した際に一切の制限を設けなかった為、総体的にはむしろ日本固有の死生観や宗教観といったものを基調にした小説が集まり、私自身に至ってはもはやホラーかどうかも怪しい小説を書いていましたが、手前味噌ながら面白い小説が集まってくれたと思っています。
 今年五月に開催された「第二十六回文学フリマ東京」、七月に開催された「第7回 Text-Revolutions」に出展したのが、以下の本になります。


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2016 11 23 4 DAMMED TIHNG VOL.3
 江川太洋「祈り」
 はもへじ「柔術怪談」
 河野真也「呪いの照明」







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 人の小説をとやかく言う資格はないので、ここでは主に自分の作品のみ触れますが、簡単な他の方の作品紹介を。
 二度目の寄稿となる、はもへじさんの「柔術怪談」は題名通りの、ある柔術道場に纏わる心霊譚で、当誌あとがきにもあるように、柔術ネタでホラーを書くようそそのかしたのは私です(すみませんでした…)。柔術の稽古の描写が頻出する割には、予想外(?)にも正調の心霊譚として手堅く読める一作になったかと思います。
 当誌の巻末を飾るのは、毎回八面六臂の活躍を見せてくれる友人(ペンネームを構想中だそうです)が、最後はほぼ三轍で書き上げた渾身の一作、「呪いの照明」です。九州の山村を舞台に、駐在所勤務の警官が当地に纏わる呪いに巻き込まれる、土着ホラーの傑作です。当誌のクライマックスに相応しく読み応え十分ですので、ご興味のある方は来年のイベントで是非当誌をお買い求め下さい。友人が冗談で、作中に登場する神主のシリーズでも書くかなと言っておりましたが、是非ゴーストハントものとして書いて戴きたく思っております。

 私が書いたのは、「祈り」という小説です。
 書いた時期はうろ覚えですが、三月から四月にかけての約一ヶ月間ほどだった気がします。相変わらず度々書き直し、「時間がない、時間がない」と焦っていたのを覚えています。
 この当時の専らの関心は短編を短い枚数できっちりと書くことで、これは昨年も挑んで上手くいかなかったので、今年こそはと意気込んだ結果、これまでで最長の長さになり、途中から短く書くこと自体を放棄してしまいました。登場人物の少なさに短い枚数の所産を求めたのが昨年の実作の失敗で、「DAMMED TIHNG VOL.2」所収の、はもへじさん「コンビニ夜話」を読んだ時に、時間軸自体の短さに所産を求めれば短い枚数で物語れることを知りました。自分では勝手にワンシチュエーションホラーと命名している、この形式に則ればそれが果たせることは理解しましたが、毎回続けても飽きられると頭を悩ませた結果、長い時間軸の話の中で短く語ることは可能かという問いを自らに課して書いたのが、「祈り」でした。
 結果は先に述べた通りですが、例えば津原泰水の「土の枕」は、若き主人公の従軍体験から、土(土地、農作業)と共に生きることを選び老いた主人公の死までの長い生涯を、僅かな枚数であるにも関わらず悠久の時間の流れを体感させる、稀有な短編の一つでしたが、書き方によっては長い時間軸の中でもそのように書ける実例があるのです。私の場合、一体何が至らなかったのか、実は未だによく分かっておりませんが、構造、描写などを包括して全体に及ぶ、小説の総体的な思考量が足らなかったと今では考えています。
 小説の総体的な思考量とは、我ながら何とも抽象的なもの言いだと思いますが、例えばプロットの構築や、エピソードの取捨選択(編集)といった、小説の成立の一部である個々の要素ではなく、それが全体であるが故に漠然として一見捕え難いもののような気がしています。強いて言えば、固有の小説を成立させる、その小説固有の文体を最後まで摑み切れなかったと、自分では思っています。短い枚数の中で長い時間軸を横断させ、その長いという感覚を読者に捕えて貰うには、結果的にはエピソードの段積みになってしまった叙述の形ではなく、もっと様々な時間が溶け合うような叙述の形があったのではないかと、この小説を離れた部分で、今でもそれについて考えることがあります。
 一方、このような作品固有の叙述に思いを巡らせると、即興で書くということとある箇所では相反する、ある種の小説を俯瞰図として捕える必要もあるのかも知れませんが、即興による叙述を崩さないまま、固有の叙述を見出していくことは本当に不可能なのだろうかといったことが、個々の小説の題材や描きたいことから離れて、小説自体について直近で考えていることの一つです。

 もう一つ書くに当たって念頭に置いていたのが即興で書くことでしたが、このことは寂しい女性の半生を描きたいと思ったことと、無意識下のうちに何処かで結び付いていた気がします。
 乱暴に即興で描きたい人とプロットを構築したい人で分けたとして、登場する人物や作品の舞台背景も含めた小説の中の世界の把握(制御)について、双方それぞれにアプローチや願望が異なるのではないかと、ここ数年そのように考えていました。綿密にプロットを構築したい人は、意図、人物の性格や行動心理、作中の世界像を自らが制御したい願望があり、即興で描きたい人は、何処かでその制御を逸脱したい願望があるのではないかと思っておりました。
 私に限って言えば後者の気持ちが強く、私が制御した世界像を読者に提示したところで、それは箱庭並みの拡がりしかないのではないかという思いがあります。元々プロットに関心が薄いこともあり、途中で登場する男性を描くまではお話の方向がよく見えませんでしたし、題名にある「祈り」が何なのかについては、これがいい加減なところと言われればそれまでですが、結局書き終わった今でもよく分かっていませんが、自分ではそれでいいという確信があり、それに従って最後まで無事に書くことができました。それが読者の方からして面白いと思うのかどうかは、大きな問題だと思いますが。
 即興で書く中で常に意識していたのは、寂しい女性の漠然とした佇まいでした。先の小説固有の叙述を捉え損ねたと典型的に思うのが、長い間孤独だった状態をエピソードの数珠繋ぎでしか描けず、時間として描けなかった点だと思いますが、そういったことを描くのが主な関心事だったことが、あまり主題や展開の把握といった方向性に関心が向かわなかった一因だと思います。
 いずれにしても人間を描くのは難しいと改めて思いましたが、一応私はホラー小説家志望ですし、と曖昧に済ませることにします。

「祈り」については概ねそのような感じでしたが、本誌の宣伝用に配布したのが下記のフリーペーパーです。
 


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2016 11 19 FREE PAPER VOL.3
 河野真也「きびなご」
 江川太洋「鴨居」







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(書影の画像がなく、他の画像を使っていますが、右下の数字が「3」になる以外は全く同じです)
 これまでフリーペーパーには自作を一編だけ収録してましたが、フリーペーパーも複数の小説があれば面白かろうと思い、友人が何年も前に書いた小説の掲載をお願いしたところ快諾戴けたので、併録させて貰いました。
 初めて読んだ時から私はこの小説が好きで、今回掲載できたことを個人的には嬉しく思っています。友人も自分で述べてましたが、元々映画志向である影響が顕著に出た、ある種シナリオのような断片の積み重ねで成立している一作だと思います。この小説から実に厭な画が見えました。

 私が書いた「鴨居」ですが、「祈り」で締め切り間際になり、いよいよ短い話を短く書く必要に迫られて最初に別の小説を書き始めたのですが、書いて少ししてその話が短くならないことを知り、切羽詰まった挙句、「もう鴨居でいい!」と強引にでっち上げた、典型的なワンシチュエーションホラーです。私にとってはこれは最後の頼みのような手法で、できればあまり用いたくありませんでした。
 鴨居でいいと居直った直後に作品の全容が見え、書くのに二日もかかっていないはずです。完成直後にそのまま校閲に突入し、この間は時間に追われていた厭な記憶しかなく、そのせいか後日読んで貰った友人から、「書き急いでたでしょ?」とズバリの指摘を頂戴する羽目になりました。面白いかどうかは不問として(という前提がすごいのですが)、短く書こうと思えばワンシチュエーションに限ることを実体験として得た小説であり、小説の短さという一点に拘泥すれば、あまり似た部分はなくとも自分の中では「祈り」と対を為しています。

 実作を書く期間を通じて、短く書くことにとにかく執着していましたが、それが一体何故なのかと考えると、自分でも未だに理由がさっぱり分からないのです。私は小説のプロットに拘らない代わりに、このような条件付けに非常に囚われ易い類の人間で、たいてい小説のネタを考える際には、直接の展開ではなくこのような条件付けから考えることが大半です。



 その他、「第7回 Text-Revolutions」に出展した際に、「テキレボアンソロ」というイベント内企画に参加した掌編が一つあります。
「テキレボアンソロ」とは、同イベントに参加した同人有志が、同一テーマの元に四千文字以内でweb上に小説を発表する企画です。第七回のお題は「海」で、私が書いたのは、「機械眼」という掌編になります。こちらもお暇な方がいましたらどうぞ。
 作品コチラ→ https://text-revolutions.com/event/archives/7652

 たった一冊の頒布で振り返りというのもおこがましいですが、来年は同人誌にはあまり拘らず、執筆に専念できる環境を整えて、執筆に励む一年にしたいと考えています。新年早々は環境を整えるのに腐心して時間が取れないと思いますが、落ち着いたらじっくり執筆に取り組もうと思っています。
 差し当たって書くのは先の述べた通り、友人が主宰を買って出てくれた、「DAMMED TIHNG VOL.4」掲載用の小説になると思います。既に描きたいことはあり、たまにふと暇な時間ができたりした時にその小説のことを漠然と考えています。来年五月の刊行になるそうですので、ご興味のある方がいましたら、同人頒布イベントでお会いしましょう。

 最後になりますが、当誌をお買い上げ戴きました読者の皆様に深い感謝の意を捧げつつ、炬燵でみかんでも食べながら新年を迎えたいと思います。ありがとうありがとう。以上です。
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長編ホラー小説のマルチタスク化

 たまたまディーン・R・クーンツのホラー小説を読んでいたら、以前から薄々問題視していたことが一挙に顕在化されたので、とりあえず、それを「クーンツ問題」とします。
 クーンツ問題といってもそれがクーンツ固有の問題でもなければ、別にクーンツの名を冠する必要もないのでクーンツ誹謗の意図もないのですが、面白がってそう呼んでみました。 このことは長編ホラー小説全般の影に、常に付き纏う問題だと思います。
 その何が、どう問題かと思うのかはおいおい述べるとして、まずはたまたま私が問題を意識した小説の、簡単な所見を述べたいと思います。
 この小説です。


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20070108195529[1] 悪魔は夜はばたく
 ディーン・R・クーンツ
 創元推理文庫






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 この小説は、所謂クーンツの試金石的な一作として知られているようです。
 クーンツに疎いので解説を鵜呑みにしますと、1960年代後期に作家デビュー後、ありとあらゆるジャンルを怒涛のペースで書き続けたクーンツが、後の代名詞ともなる、ジャンルミックスとしてのホラー小説を確立させた一作だそうです。アメリカでの刊行が1977年。それを四十年以上経って初めて読んだのですが、それには読んで納得しました。
 クーンツにとって試金石的な一作であることは勿論、方法論的にはおそらく英米のホラー小説においても、一つの潮流に至る一作のように見受けられました。
 本書に遡ること2年前、先んじてスティーヴン・キングが「呪われた町」で、米国モダンホラー長編の定型を築いておりますが、キングが三人称他視点を用いて、舞台意匠や場面転換に劇的な能動性を与えたことは行っても、他ジャンルの定型を貪欲に取り込むことまではしませんでした。この作品でクーンツが行ったことはただ一点、ホラー小説の意匠の中にフーダニットを持ち込んだことでした。これを持ち込むことで、広くミステリ全般の要素をホラーに吸収する、ホラー小説における画期的な方法論を確立されました。
 この方法論の確立の後、本人は勿論、他の小説家も寄ってたかってこの方法論の発展に尽くし、後の長編モダンホラーの一大勢力が築かれる訳ですが、その詳細はここでは割愛します。

 で、小説の祖筋ですが、女性霊能力者と連続殺人鬼の鬼気迫る攻防劇です。
 主人公の霊能者は、度々殺人鬼の引き起こす殺人の瞬間を幻視します。夫や協力者と犯人捜しに奔走します。ポルターガイストまで起きます。幻視を辿るうちに霊能者は、封印してきた自らの”忌まわしい過去”にも次第に直面させられます。伏線やミスディレクションも作中に手並み鮮やかに配置され、犯人は一体誰なのか、とついページを繰る手付きも早まり――と、実際面白いのですが、この面白さは完全にミステリとしての面白さで、ホラーの面白さではありません。 この小説では、提示された謎、伏線は全て綺麗に回収されます。確かに鮮やかです。しかし、全てが明るみの元に晒された後、ホラーとしての不穏さ、尾を引く感じは微塵も残りません。清掃された舗装路のように整然として、何もありません、何もです。
 怖さよりも面白さが勝つこと、しかもその方が読者への訴求力が強く、圧倒的に勝ってしまうこと。長編モダンホラーの問題は、まさにこれです。
 そして、この問題は、派生するもう一つの問題に行き着きます。怪奇小説における金言の一つに、「怖い小説は短編に限る」という言説がありますが、長編でも恐怖を持続できるのか、という問題です。
 と、こういう小説が、まずありました。次の小説です。


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20070108195529[1] 死の影
 倉阪鬼一郎
 廣済堂文庫






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 この小説は、小説家の井上雅彦が編纂した、国産超大作アンソロジーシリーズ「異形コレクション」の、書下ろし長編限定の関連企画、「異形招待席」の第1作目に当たります。「異形招待席」は短命な企画で、3作で幕を閉じました。残念なことです。
 最近は、企画区切りで集中的に読書をしてまして(特に意味はありません)、「異形招待席」シリーズを続けて読みました。すると、自分では意図もしていないのに、奇しくも先のクーンツ問題に正面衝突する作品ばかりが続いたことがとても面白く、以下、同シリーズの所見を羅列します。

 この小説については、著者あとがきの概要から始めます。
 怖い話は短編に限ると言われるが、それは一応正論で、超常現象に起因する恐怖は長続きしないから、面白いホラー長編はたくさんあっても、怖い長編は存外少ない。例外たる先駆的作品として、小池真理子の「墓地を見下ろす家」があり、どうすればそれを超えられるかを念頭に置いて書かれた。そうあります。
 ここで言及されていたのは、まさにクーンツ問題そのものです。あとがきを読んだ印象は、あ、ここにも同じ考えの人がいたんだ、という素直な感慨でした。範を置く小説が、「墓地を見下ろす家」であることも、実に合点がいきました。「墓地を見下ろす家」は個人的にも、例外的に怖い小説の一作だと思います。因みに同じ著者の「死者はまどろむ」も同じく、怖い長編ホラーの傑作です。ご興味のある方がいましたら、一読をお薦めします。
 話を戻しますと、倉阪鬼一郎についてはその数日前に、「首のない鳥」という別の長編ホラー小説を読んでおり、それがあまりに鬼畜である極点に達した小説だと思えた為、大いに期待して嘗めるように読みましたが、そこで直面したのは、また別種の長編ホラー小説における問題でした。

 また、あとがきに戻りますと、マンションが舞台である「墓地~」に倣って、舞台をマンションにしたそうです。まず、舞台をある限定された空間に設定したということです。こちらのマンションは、ある宗教団体の運営するマンションで、四階の渡り廊下で、隣りの同じ団体が母体の幼稚園にも繋がってますが、ただ、その四階は扉が塞がって行けないのです。
 このような限定下で、ある種ストイックに恐怖を追求するのかと思えば、ここで著者が選択した方法が、様々な恐怖をこのマンションに詰め込むという、ジャンルではなく、恐怖の質的なマルチタスク化でした。心霊、殺人鬼、悪魔崇拝など、実に色々な種類の恐怖を一つの舞台に(いささか強引に)押し込んだ結果、作中に登場するサイコパスの造形が強烈過ぎて、恐怖の相乗効果を生むどころか、他の恐怖が全て駆逐されたというのが、率直な私の感想でした。
 これは以前、このブログでも挙げた、「ナイスヴィル」という小説でも思ったことですが、異なる種類の恐怖を作中で競い合わせると、たいていはより即物的で、より現実的な恐怖の印象が勝ってしまうことが、この方法の大きな問題です。
 結局は、幾ら恐怖のパターンを羅列しても、最後に手元に残る恐怖はただ一つ、ということです。あれもこれもという訳には、なかなかいきません。
 この小説に関する限り、やはり全体的な印象として、やはり怖さよりも面白さが勝ってしまった印象があります。その象徴的場面として、マンションの渡り廊下で、先のサイコパスと亡霊が一対一で対決するという珍妙な場面がありますが、もうこうなるとどちらに対して怖がって良いのか、読む方も的を絞れない印象を拭えません。

 クーンツは1977年当時、おそらく自覚的にジャンルミックスの方向性に舵を振った(面白さを優先させた)と思いますが、この小説の著者はあとがきにもあるように、クーンツ問題を打破する明確な意図の元でこの小説を書いている訳ですから、そういう意味では明らかに方法論の選択を誤っているとうに私には思えました。個人的には、先達の通過した道程を辿ることで勉強にもなり、有意義な読書体験でした。
 続けて、「異形招待席」2作目です。


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20070108195529[1] リアルヘヴンへようこそ
 牧野修
 廣済堂文庫





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 この本も著者あとがきの孫引きから始めます。著者が先の「死の影」同様、明確な意図を以て執筆に臨んだことが綿々と記されています。
 何としてでも怖がらせたい。しかし恐怖の対象は各人異なるので、生理的恐怖、心理的恐怖、現実的恐怖、超心理的恐怖、あらゆる恐怖を一冊に込めた。
 米国の恐怖小説は、舞台として容易に閉鎖された街を作れるが、国土の狭い日本では山村になり、できれば近代的な街並みが望ましい。そこで山奥を切り開き、僅かな道路以外には辿れないような孤立下にある、近代化された街を造形した。
 また、超常現象は説明が為されないことこそが怖いが、自身の性格からどうしても説明をしたくなってしまう、故に説明することでより恐怖が増すようなロジックを考えた。
 最後に、評論家である風間賢二の、「(ホラー小説は)ただ読者が戦慄する効果のみを狙った、いわば潔い小説でなければならない」という引用で締め括ります。

 このあとがきに関する限り、ホラー長編における執筆意図としては、本当に申し分ないものだと思います。何よりも焦点を恐怖に絞っている点が実に素晴らしい。
 ありとあらゆる恐怖を作中で提示する以上、一人称の体裁はあり得ません。三人称他視点で描くことを当初から念頭に置いた、この「閉ざされた街」の造形の論理も、個人的にも非常に納得のできる方向性だと思います。街をど田舎にしたくなかったのは、小説から土着色を排除したかったからで、ここで著者が英米のモダンホラーの枠組みを想定していることがはっきりと窺えます。
 怪異にオチを付ける危険性も、基本的には著者の言う通りだと私も思います。怪異が怖いのは、何よりもそれが不可解で説明のしようがないからです。オチが付くということは、基本的には恐怖の消失を意味します。それを分かった上で、さらにそれを超える論理を想像しようという、著者の鼻息の荒さが伝わってくる宣言です。

 作品の概要ですが、主人公は虐めに遭い、強い疎外感を抱える中学生の少年です。彼は学校の人間関係や家族よりも、山奥に囲まれたこの街に生息する浮浪者に強いシンパシーを感じ、浮浪者の生態のレポートサイトを立ち上げています。浮浪者とコンタクトする彼は、その一人から、「エヌ」の存在を聞かされます。「エヌ」とは怖いもので、エヌについて尋ねると、それは「エヌ」だから言いようがないと言われます。遠方の浮浪者たちも、「エヌ」絡みか、徐々にこの街に接近してきます。その頃、街には不吉な都市伝説が蔓延し、次第に住人たちも怪異に囚われていきます。
 これは典型的な英米の長編モダンホラーのノリで、途中から堰を切ったようにゾンビや怪物がばんばん登場してきます。最後は主人公や浮浪者たちが、街を覆う怪異と対峙するという、まさにキングやクーンツそのものといった展開を迎えます。こうなるともはや恐怖は望めず、個人的には中盤辺りでゾンビが出始めた時点で、怖さよりも面白さを感じました。小説は、先の「死の影」をよりグロく、スケールアップさせた印象で、「死の影」とほぼ同じ理由で意図を踏み外していると私には映りました。
 やはり、作中に雑多な恐怖を詰め込む方法は、読者の恐怖を喚起しません。続けて2作も同傾向の小説を読んだことで、マルチタスク的に恐怖を詰め込む方法は、方法論として誤っているという明快な結果を得たと私は思いました。
 とすると、別の方法論から恐怖に迫る他ない訳ですが、その前にいい機会なので、いささか閑話休題的な扱いにはなりますが、「異形招待席」の3作目もここで触れておきます。


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20070108195529[1] 廃流
 斎藤肇
 廣済堂文庫






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「異形招待席」最後の3作目ですが、個人的にはこの小説が一番面白いと思いました。
 前2作が直球のホラーだった為、今作では変化球を目指したと、著者あとがきにもあるように、気負いが感じられた前2作に比べて、著者がやりたいことをのびのびと書いたことが伝わってきて、面白く読みました。
 それは言い換えれば、ストイックに恐怖のみを追求しないことを示しています。今回は恐怖を追求するホラー小説について、ああだこうだ批判めいたことを書いていますが、勿論全てのホラー小説が一途に恐怖のみを追求するものではないことも分かりますし、面白いホラー小説を読むのは好きです。何せ好きなのが、「ウィアード・テイルズ」ですから。
 
 作品は、主人公が少年の頃に、ある一軒家での少女との邂逅の場面から始まります。緑の光に包まれ、パネルのような板から上半身を生やした、実体定かならぬ少女との邂逅は、その後も主人公の記憶に郷愁と共に深く刻まれますが、主人公の住む街では、やがて犠牲者の身体の一部が綺麗に剥ぎ取られる事件が頻発します。その事件は、少年の頃の主人公の記憶と深く繋がっているのでした。
 作品の基調は冒頭にあるような、甘酸っぱい郷愁を含んだリリカルなムードですが、途中から怪獣映画並みの大風呂敷な展開に転じるところに、予想の斜め上を行くような目を惹く面白さがありました。中盤以降、登場するなり次々と犠牲になっていく、所謂「死に役」の描写が延々と羅列される辺りから、一気に作品がドライブします。この雪だるま式に被害が拡がる一連の描写は、目で文字を追っていて心躍る瞬間でした。

 この辺りの描写の解放感は、ここで作品がリアリズムの壁から抜けて一歩先に行ったことに繋がっていますが、小説の中のリアリズムの逸脱にも、色々やり方があると思います。この小説に関しては、途中までは一応リアリズムの範疇に留まっていたことが、後の飛躍を体感させますが、最初からリアリズムを逸脱する手法も当然あり、そうなると受ける印象もまた違ったものになります。
 作中におけるリアリズムとの距離感はホラーに限らず、小説全般に跨る大きな問題ですが、真摯に恐怖を追求する長編ホラー小説であれば、都度都度の時代で要請される「常識」観の大きな壁は、否応もなく避けては通れないものだと思います。そこを通過しないと、超常現象を介した恐怖が読者に訪れてくれません(短編はこの限りではないと思います)。
 この小説全般から感じられる軽やかさは、常識の壁との正面衝突を軽くいなしたことにあると思います。一つ、リアリズムを軽くかわす方法として、厳密な描写を避けて軽い筆致で描く方法があります。、著者のあまりギチギチに書き込まない筆遣いが、今作に関しては作品と上手く一致した印象がありました。
 相対的には淡泊な筆致ですが、中身は結構執拗でエグいという、なかなか面白い印象の残る小説だったと思います。


 また本題に戻りますが、ここから先は現時点での仮設です。ここで倉阪鬼一郎が規範にした、「墓地を見下ろす家」について考えるのは面白いと思います。
 あの小説が何故怖かったかといえば、亡霊の巣食うマンションという、恐怖の対象をただ一点に絞ったことは、要因として大きいと思います。何かのジャンルがミックスされたり、異なる恐怖が一つの作品に詰め込まれると、たいてい恐怖の源泉が相殺されることとから推察されるのは、(超常現象を介した)恐怖は殊の外繊細で、他の要素の干渉に極めて脆い性質がある、ということです。この小説では幽霊の恐怖以外に何もない為、読者の気が他に逸れることがありません。もしこの小説で仮に、一方隣人は極度のサイコパスで、とやったりすると、同じ二の轍を踏むことになると思います。
 そこから先は、小説を引っ張る著者の筆力が大きくものを言うと思いますが、この小説の描写の臨場感は本当にすごいです。作中の人間の体感や恐怖が、ひしひしと読んでいるこちらにも伝わってきます。この描写力を最大限に発揮するお膳立ての一つとして恐怖の対象を絞るのは、消去法的な選択肢と捉えられかねませんが、確実に効果はあります。
 また、恐怖の対象が幽霊であったことも、確実に効果があります。これこそ完全な私見ですが、対象として吸血鬼、宇宙人はまだありかなと思いますが、ゾンビ、怪物などになるとなかなか厳しく思います。私が恐怖の対象の線引きの基準にしているのは、何処かでその恐怖を飛躍させればリアルとして受け止められる(或いは描ける)余地があると思えるかどうかです。ゾンビ、怪物になると、幾ら描写に優れていても、全く自分のリアルなり生活感の中にはないもの対象だから、怖く思いようがないということだと思います。仮に対象に怪物を選ぶ場合、私でしたら基本的に恐怖とは別の面白さを狙います。
 比較的多くの日本人にとって、身近に恐怖を感じられる様式に怪談があると思いますが、怪談に吸血鬼や怪物の話は殆ど出てきません。もしそれらの対象が高確率で恐怖を喚起するものなら、確実にそういう怪談がより広まっていたはずです。
 
 三津田信三が特に好きな怪奇小説家として、M・R・ジェイムズと岡本綺堂を挙げているのには、非常に納得できるものがあります。この三者は、題材から方法論に至るまでほぼそれを逸脱しないという、ストイシズムを貫徹しています。何故彼らがそうするのかといえば、恐怖へと至る対象や作法の間口の狭さと、それが効果的であることを知悉しているからだと思います。逆に言えば、ストイックな路線でこの三者に迫るのも相当に険しいと思いますし、そのようなストイシズムの効果を知りながら、また何か別の方法を模索するより他にない、というのが現時点で考えていることです。
 それについて、今の私が具体的に語る材料は何ら持ち合わせていないのですが、考えるにも自分なりの基準が必要だと思います。私の場合、それが我がこととして感じられるかどうかになると思います。四十を過ぎて、以前よりは死が身近になってきましたが、最終的には我が身に訪れる現実の死と、それが形象化された恐怖の対象の間に跨る何かに、ストイシズムとは異なる恐怖を喚起する余地があるのかも知れません。
 いずれにしてもこの問題は、「異形招待席」が発行された今から19年前(!)、既に実作者たちによって実地検証の段階にまで入っていたことを考えると、何やら隔世の感に囚われます。

ジョン・コイン「闇から来た子供」

20070108195529[1] 闇から来た子供
 ジョン・コイン
 扶桑社






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 所謂、B級ホラー小説といって差し支えないと思います。
 取り立てて特筆するところはありませんが、B級ホラーの許容は、ホラーを嗜む以上、常に付いて回りますし、この小説が嫌いではないので、ここで取り上げてみました。
 ジョン・コインは、以前「レガシー」というホラー映画のノベライズを書いた人だそうですが、今更「レガシー」と言われても…というのと、他では「罠」だか「プレデターズ」だかといったホラーアンソロジーで、短編が訳されたくらいしか名前を見た覚えがありません。こと日本では、十分にマイナーな小説家だと思います。この作風なら、それもむべなるかな、というのが正直な印象です。

 まずは解説にあることを、そのまま孫引きします。解説はコインの概略を、上手く要約しています。
 ジョン・コインの小説は、無闇に暗く陰惨な作風に定評があり、郊外の田舎町を好んで舞台に選び、RPGゲーム、ニューエイジといった現代風(といっても、もう30年近く前の話ですが)の設定を用いるも、幽霊、因襲、宗教といった古典的題材に怪異の源泉を求め、自己探求型の女性主人公を好んで描く、といった辺りが共通の特徴のようです。このことから、ジョン・コインが作風を毎回変える挑戦型の作家であるより、定型の枠内で語ることを好む、金太郎飴型の作家であることが窺えます。
 以上の特徴と、実際に読んだ印象から、同じ金太郎飴型ホラーの大御所、ジョン・ソールの名前がを嫌でも思い浮かびますが、実際、二人の作風はよく似ています。
 この小説を読む限り、田舎町の因襲、旧家の怨念といった題材を好んで用い、とにかく暗く陰惨なソールの作風の影響が、至るところから見て取れます。ペースが遅く、粘着質で異様にしつこいソールの文体が、ソールの小説には見事に合致していますが、コインの文体には、ソール譲りの(?)異様に粘着質な部分と、強引で筆の荒い部分が混在しており、個人的にはこういうごつごつした印象の、噛み合わせの悪い部分のある小説は好きです。噛む合わせが悪いということは、読んでいて引っ掛かる部分(考えさせられる部分)もあり、そういったことを以下に考えてみます。

 コインのしつこさも、ソールのしつこさも、話をとにかく暗い方へ暗い方へと運びたがる、展開のエスカレーションを基調にしていると思いますが、コインの小説には加えて、女主人公の果てしない自己韜晦と自己合理化が付き纏います。この部分が相当にしつこく、気持ちを持ち直す、崩れる、持ち直すといった、無限ループを最後まで繰り返すので、ここがこの小説で読んでいて、最も堪える部分でした。
 話は飛びますが、以前、自分が発表した小説に読者の方から、主人公が嫌いなタイプなので、(怖い目に遭って)「ザマぁ」と思った、という感想を戴いたことがありましたが、その時に私が思ったのが、「そう思われたのなら、これは失敗だ」ということでした。この感想はとても示唆的で、怖い目に遭う人のありようを読んで、読者がそれを追体験するのがホラー小説の基本的な形だと思いますが、作中の人物に抱くある種の感情が、読者に抱いて欲しい恐怖と相反する場合があります。特に作中の人物への嫌悪感が刺激された場合、恐怖を阻害しかねないことが多い気がします。
 この小説を読んだ時の私が女主人公に抱いたのが、先の読者の方と殆ど同じ、「コイツ、何やねん!」という気持ちでした。自分の小説が人から見ると、こう伝わるのかという実例をこの本に見た気がしました。全く個人的な事柄ですが、これは善いことでした。
 主人公は聡明なソーシャルワーカーとして描かれ、事務的な業務内容に疑問を感じ、地下の中で暮らしていたホームレスの少年の里親になるところから物語が始まりますが、この主人公は聡明どころか、ことある毎に気持ちを昂らせ、一喜一憂というレベルを越えて、何かあればめそめそ泣き、他人に喰ってかかり、自己憐憫と自己合理化の間を忙しなく行き来し、横恋慕を常に画策し、トラウマもしこたま抱え込んでいます。
 そこに作品の主題たる、「悪とは何か」という果てしない自己問答の開陳が加わります。この小説で事件が起きていない時の描写の大半が、この女主人公の心理の変遷に費やされますが、この小説の一番の問題は、この変遷が実に不自然なことです。著者が作品を暗い方へ導きたいので、この場面では(主人公に)こう思って欲しい、といった恣意性を至るところに感じます。さすがにソールの小説は、ここまで不自然ではなかったと思います。
 展開を優先し、状況毎に人物の感情を恣意的に操作し続けた結果、本来そんな意図はなかったのに、総体としてとても厭な女に仕上がっていた。そんな気がするのです。また、都合良くエロいところが、実に恣意性を感じさせます。
 三人称多視点で描かれるこの小説には、他にも何人かの主要人物が出ますが、この女主人公同様に、大半の人間が身勝手で自己都合を優先し、判断基準の目安があられもない性欲です。内面描写が多いのに、露骨な思考の変遷が延々と続くところに、この小説の大きな問題があります。ただ、不埒な性欲が死を招くのはホラーにおける定石でもあり、作品に惨殺描写が溢れ返ることにも繋がります。長所と短所が表裏一体となった、歪つな力が作品から伝わってきます。
 
 人物の内面を描く粘着質なしつこさに反して、中盤以降バタバタと人が死ぬ描写は、随分と筆が荒く性急です。途中で出た人間が、その章の中でいきなり死ぬ(所謂、ただの「死に役」)のはざらで、最後は主人公が何処に行けば、誰かの死体に出喰わすといった状態になります。この物量作戦のような死の数々は、先の内面のしつこさとは異なる反復行為によるしつこさがあり、延々続く死を読まされ続けると、一つ一つの死が幾ら安手でも、作中に死が蔓延しているといった、ホラーとしては好ましい気配が作中に漂い出してきます。
 実は、性急で粗末な死が溢れるこういった感じには、何かしら記憶に残るものがあり、それは何かと探っていたら、イギリスのスプラッタパンク小説家、ショーン・ハトスンの感じにそっくりなのでした。ショーン・ハトスンの作風は、コインの作風から面倒臭い内面描写を取っ払って、ひたすら殺戮の為の殺戮を描く、B級ホラーの鑑のような人で、私は当然ハトスンの小説が好きです。
 
 という訳で、ジョン・コインという人は、ジョン・ソールの皮を被ったショーン・ハトスンでした。
 これが本稿の結論です(珍しく結論が出ました!)。

「賠償金」

 Twitter300字ss公募用掌編です(下記、主催アカウントの紹介文です)。

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 第44回お題 「約束」
 題名 「賠償金」

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 植岡は元は私の顧客で、酒乱が過ぎて解雇された。私も最後には宴席で殴られ、上の差し歯が飛んだ。絶縁した数年後、会社のPCに植岡からメールが届いた。植岡の主張は、「合意に基づく」という一方的な訴状だった。
 曰く、破損した店の備品を賠償させられた(これは嘘)。賠償金を支払えなかった為に、系列店の鮫洲の焼鳥屋で二年間強制労働させられた。それが原因で家族と別居、離縁。鮫洲の焼鳥屋に屈強なクルド人がいて、その男に閉店後に強姦された。自宅近くで前妻の亡霊に遭遇し、指を差された。訴状の全てに賠償額が記載され、累計は九六○○六二円に、消費税が八パーセント。亡霊に指差された精神的損害への賠償額は、三○五八四円――

中村融編「影が行く」

20070108195529[1] 影が行く
 P・K・ディック、D・R・クーンツ他 中村融編
 創元推理文庫






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 リハビリで、この記事を書いています。
 最近は思うところがあり、SFの中に、自分には新しいホラーの源泉を探っています。「ホラーSF傑作選」と銘打たれたこの本は、今の私には打って付けの本で、実際に面白く、読みながら色々と思うところがありました。編訳者の中村融は近年、名アンソロジーを多数編纂しており、当ブログでは以前、「怪物ホラー傑作選」である、「千の脚を持つ男」を取り上げました。
 編者自身による巻末の解説は、自らが考えるホラーSFの定義付け、SF、ホラー双方の変遷の概略などが手際よくまとめられ、この解説一つで、編者が<利き手>であること、この本が優れた選書であることを裏付けているように思われます。

 冒頭を飾るのは、SF、ホラー双方に跨る大御所、リチャード・マシスンの「消えた少女」です。
 お話を要約しますと、声はするのに姿が消えた娘の話で、ここであっさりネタをバラしますが、娘は四次元に転移したのです。舞台は家のリビングのみ。どうしようもなく右往左往する両親と、その友人の顛末が描かれただけの佳品ですが、この作品で起こった出来事は、何かの因果があった訳でも、何かの意志が介在した訳でもなく、それがただの現象であるが故に、何の手の施しようもありません。目の前に断絶を示す壁が聳え、人間を突き離したような恐怖の感触が生まれます。
 この、実にドラスティックな怪異へのアプローチは、SFが介在したホラーの恐怖の質が、従来のホラーのそれとは大きく異なることを如実に示す、冒頭にふさわしい作品だと思います。編者はこの作品を、日常生活の中に、SF的な怪事件が降りかかる、「ミステリー・ゾーン」的な作品と位置付けています。このようなアプローチの作品が、ホラーSFの大きな潮流の一つであることは確かなようです。この短編は後に、実際に、「ミステリー・ゾーン」で映像化されたそうです。

 シオドア・S・トーマスという人は、知る人ぞ知るマイナーなSF作家とのことですが、本書に収録された「群体」という作品では、ホラーではお馴染みの「不定形な怪物」(スライム、ブロブなど)を扱っています。「不定形の怪物」は、ホラーにもSFにも非常によく映える存在で、それを何らかの科学的根拠に結び付けるのも実に容易だからです。
 この作品は、地下の下水道の中で繁殖した「群体」が地表に滑り出て、ものすごい規模で街を覆い尽くす過程を、ひたすら客観的視座に立って描いた極めてドライな作品で、それが不定形の怪物に呑み込まれる人間の描写などを、筆を尽くしておぞましく描こうという、ホラー的なアプローチに則った作品とは異なる感触を持った一作で、冷やかな視座の恐怖といった感じが作品から滲んできます。
 この作品で目を惹くのは、科学的論理に即した怪物の描写です。例えば人間を吸収する際に、人間は体内の60パーセントが水分ですが(実際は70パーセント?この作品には、60とあります)、怪物は40パーセントしか水分がない為、残20パーセントは余分として周囲に溢れ出る、といった描写が出ますが、このようなロジックに即さないとなかなか書けない描写です。描写のありよう自体が変わってくるといったことは、今の私がSFに求めるものに近い気がするように感じました。

 全作の感想は書けませんので、個人的に一際素晴らしいと思った三作を、下記につらつらと挙げます。
 編者曰く、1950年代のアメリカに台頭した、空前のパラノイア社会状況を端に発しながら、一人その遥か先を行ってしまった作家というのが、P・K・ディックだそうですが、これに異論を唱える人は誰もいないと思います。
 隣人が怖い=人間に擬態した生命体、といった従来型パラノイアを援用しただけの作品の遥か上を行く一例が、ディックの名作、「探検隊帰る」です。この作品については、ネタは一切バラせません。短くて非常にタイトな作品ですので、これは是非お読み下さいとしか言えません。描かれなかった作品の背景に思いを巡らせると、変わったのは世界(宇宙)の位相なのだと思い至ります。この短さで、話をそこまで持って行ってしまう凄み。やはり、ディックは「遥か上」の小説家のようです。
 私はSFプロパーではありませんが、おそらくSFの魅力の根幹は、これまで常識的に捉えてきたはずの世界の位相が、読者の中で変化していく、まさにその瞬間にあるように思われますが、そういう意味ではディックは、かなり端的にそれを味わわせてくれる小説家だと思えます。世界の位相の変化、これがSFの側からのホラーにおける恐怖の源泉ではないかと、私は今のところ考えていますので、最終的には何の理系の素養もないのに、ハードSFを見果てぬ終着点のように思い描いています。ディックに科学的素養は殆どないと思いますが、ひょっとすると、SFにおけるホラーの源泉を最も体現した小説家の一人なのではないかと、私は密かに思っておりました。
 ホラーSFの源泉に触れるという点で、決して外せない作家、ということでディックの作品をここに挙げました。

 表題になった、ジョン・W・キャンベル・ジュニアの「影が行く」は、まず間違いなく、この編書のハイライトともいうべき傑作だと思います。ここにはSFの側からホラーにできることの、ほぼ全ての面白さが詰め込まれているように思えました。
 この小説はジョン・カーペンター監督の傑作ホラー映画、「遊星からの物体X」の原作でもあり、原作を読んでから改めて映画を思い返すと、よくこの作品の雰囲気をあそこまで忠実に映像化できたなと、映画への畏敬の念も新たに芽生えさせられた、素晴らしい読書体験をさせて貰えました。
 南極基地という閉鎖環境。氷に閉ざされた過去の宇宙生命体と、その特性。浸食。擬態した人間は誰かという疑心。それを発見する方法のSF的アプローチ。ここまでお膳立てがきっちりと揃ったホラーSFも、稀かと思います。短編中心の選書にあってこの作品は中編ですが、長さに十分見合った中身の伴った作品だと思います。
 人間に擬態し、社会に溶け込む異生物という存在は、ホラーSFにおける常道の一つです。この作品や、ジャック・フィニィの名作、「盗まれた町」の完成度に迫るのは実に困難な気がしますが、浅学な私が知らないだけで、むしろ21世紀の科学素養に基づいた、ものすごい擬態ものの作品があるのかも知れず、そういう小説があったら、是非読みたいと思うところです。人間社会に溶け込む異生物は、ホラーでいえば吸血鬼のように、様々なバリエーションや味付けを施せる、挑戦しがいのあるホラーSFの一定型だと思います。その原石の一つになった作品ということで、ここに挙げさせて貰いました。原石の力強さが漲っております。

「影が行く」に並ぶ今一つのホラーSFの常道が、宇宙人侵略だと思いますが、この今一方の定型を、これまた素晴らしい完成度で描き切ったのが巻末に組まれた、英国SF界の重鎮、ブライアン・W・オールディスの「唾の樹」で、この小説も中編ですが、長さに見合った内容は十分保証できると思います。
 正攻法で重々しい筆致が迫力満点だった「影が行く」に比べますと、「唾の樹」の闊達な筆遣い、緩急の巧みさ、著者のシニカルな眼差しなどとは見事に対を為すもので、SFという以前に、オールディスという人は本当に手練れで、一筋縄では行かない人だと感じました。作品の中に様々な層の厚みがあり、一つの作品の中で、読者が個々に色々と面白い点を抜き出せるような小説にもなっていると思います。
 シニカルさの一端をここに記しますと、舞台が十九世紀末(?)の英国の僻地になっている点です。作中の人物の一人は科学的見地から事態を推察できる人間として描かれていますが、周囲の農民たちはまだ未分化な生活様式や価値観の中を生きており、SFにつきものの論理性を、作品全体で玩具のように扱う皮肉さが漂っています。一方、科学的とされる人間も、当時の「自由主義的」な身勝手な傾向があり、著者はどの立場にも均等に「シニカル」で、私はこういう性格の悪い作品が好きです。自分は直情的な作風なので、こういう洒脱さを素直に羨ましく思います。
 また、この小説はメタ小説でもありますが、それは読んだ方のお愉しみということで、ここでは割愛致します。
 巻末にツイストの利いた、ホラーSFの王道中の王道的を描いた作品を配して、アンソロジーを華麗に締め括る、編者の手並みの鮮やかさにも感心させられました。

 これまでSFの側からホラーに接近した作品を取り上げましたが、最後にホラーの側からSFに迫った作品を挙げて終わります。
「ウィアード・テイルズ」派の巨匠、クラーク・アシュトン・スミスの、「ヨー・ヴォムビスの地下墓地」という作品がそれです。
 内容は火星の古跡探検隊の遭遇する恐怖を描いたもので、要は秘境の舞台が火星になっただけという作品で、編者はこういった作風を、SFとしては噴飯物でも、ホラーSFの今一つの金脈、と位置付けております。
 彫刻、詩も嗜む、生粋の芸術家肌であるスミスの流麗な文体が生み出す、華麗な火星のイメージが文を読む目にも美しい一品ですが、私がこの作品を読みながら思ったのは、これまでSFという(自分には)異分野から垣間見るホラーの面白さと全く相反する、読んでいてあまりにも肌に馴染みのあり過ぎる感触、といったものでした。科学的根拠など皆無に等しく、これまで散々秘境の恐怖を扱ってきた、それこそ「ウィアード・テイルズ」辺りで散々描き尽くされた作風と全く同じものがそこにあった、というだけなのですが、純正なホラーから離れたくてこの本を読んだのに、結局は元の鞘に収まっただけかと憮然としましたが、それでも面白いものは面白いとしか言いようがなく、結局自分はこっちの側の人間なんだと再認識させられた気がしました。
 逆にこの選書の中では、この一作は図抜けて異色な肌合いを持ち、「千の脚を持つ男」における、フランク・ベルナップ・ロングの表題作を読んだ時も同じ印象を持ちましたが、「ウィアード・テイルズ」を主戦場にしてきた小説家には、曰く言い難い独特の作風がある気がしてなりません。純正なSF作家で、異郷作家とも称されるジャック・ヴァンスの、「五つの月が昇るとき」という、スミスの作品とよく似た作品もこの選書にはありますが、ヴァンスのそれとも、やはりスミスのそれは質感が大きく違っていて、小説家の出自の違いを愉しむという、なかなか面白い体験ができたことも、最後に言い添えておきたいと思います。
 良いアンソロジーでした。
 



 

 

仁賀克雄編「猫に関する恐怖小説」

20070108195529[1] 猫に関する恐怖小説
 フレドリック・ブラウン他 仁賀克雄編
 徳間文庫






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 創元推理文庫刊の「怪奇小説傑作集」5部作に比肩する名アンソロジー、「幻想と怪奇」3部作(ハヤカワ文庫)の編者として有名な仁賀克雄が編纂した、猫をテーマにした恐怖小説集です。
 題材のせいか、全体的には小粒なアンソロジーに仕上がっておりますが、全てのアンソロジーが、「闇の展覧会」だの、「ナイト・フライヤー」だのみたいに、長大重厚なものばかりでは疲れますので(そもそも本を持つ手が重い)、たまにはこの本のように、いい按配に小粒なアンソロジーがあっても良いように思います。
 また、執筆陣が無闇に豪華ですので、下記に題名と著者を挙げます(これが書きたくて、この記事をアップしたようなものです)。

 トバーモリー/サキ
 猫男/バイロン・リゲット
 猫の復讐/ブラム・ストーカー
 白い猫/S・ル・ファニュ
 猫ぎらい/フレドリック・ブラウン
 僕の父は猫/ヘンリー・スレッサー
 古代の魔法/A・ブラックウッド
 箒の柄/W・デ・ラ・メア
 灰色の猫/バリー・ペイン
 ウルサルの猫/H・P・ラヴクラフト
 エジプトから来た猫/オーガスト・ダーレス
 緑の猫/クリーヴ・カートミル
 七匹の黒猫/エラリークイーン
 魔女の猫/ロバート・ブロック
 著者謹呈/ルイス・パジェット

 所謂、古典派の巨匠(腕を組んでどっかと座る首領級といった趣き)から、御大を筆頭にラヴクラフト門下生(道場荒らしめいた、やんちゃな一派)、「奇妙な味」に属する手練れ(こちらは斜に構えたクールな方たち)、マイナー小説家まで、万遍なく幅広いラインナップです。怪奇小説ファンには著名な、「あの人が、こんな作品を」という、アンソロジーならではの愉しみも味わえると思います。
 何を考えてるか分からない、執念深い、眼が光る、音もなく忍び寄る、無言で窺い見る、といった、魔性としての猫、という旧態然とした猫観に則った小説が大半ですが、猫カフェができ、SNSで連日猫の愛くるしさを強調する動画や写真がアップされる昨今となっては、個人的には一巡して新鮮味すら感じられ、ありし日の価値観を今の目で読むことは、何であれ色々と思うところがあって、面白いものだと思います。
 因みにストーカーの「猫の復讐」は、猫を愛してやまない方の中には、本気で怒り出す方もいそうな気がします。猫の扱いが本当に酷いですから。小説は因果応報の極みといった内容ですが、ここにも人間主導の、当時の漠然とした価値観が作中に横たわっているように思えます。

 作品単位でも、小粒ながら印象深い作品が幾つかあります。
 相変わらず、「朦朧」っぷりが著しく、思わせぶり過ぎて実に尾を引くデ・ラ・メアの「箒の柄」(デ・ラ・メアは「朦朧法」の大家)。作中の猫の不気味さでは一際印象に残る、クリーヴ・カートミルの「緑の猫」(この作品は、SFホラーの佳作でもあります)。パルプ誌出身らしい大雑把さが魅力の、ブロックとダーレスの諸作。殆どダジャレの域に近いブラウンの「猫ぎらい」。コントに翻案できそうなスレッサーの「僕の父は猫」(この作品はちょっと好きです)。

 中でも素晴らしいのは、個人的には下記の3作だと思います。
 バイロン・リゲットという人は、アメリカの退役軍人という以外に詳細不明の人のようですが、無人島を買い取った富豪を描いた「猫男」は、想像するだに悪夢としか言いようのない世界です。ネタがばれたら面白くないので、これ以上の紹介は控えますが、この人が書いたものが他にあれば、是非読みたいと思うところです。
 ルイス・パジェットの「著者謹呈」は、近年では文春文庫刊、「もっと厭な物語」にも再録されていましたが、確かにそれも頷ける、お話のネタ自体が非常に面白い、猫テーマの傑作の一つだと思います。復讐に燃える悪魔の使いの猫と、猫に復讐される私立探偵の攻防を描いた作品ですが、これも探偵がどう猫に対処するかを書いてはネタばれになる為、紹介は控えますが、綺麗に着地したラストまで含め、まず退屈する間もなく一気に読める、素直に面白い一編かと思います。この話を読んでいて、何とはなしに「血の本」シリーズの頃のクライヴ・バーカーの、幾分気楽な部類の短編を思い出しました。直截的には、「下級悪魔とジャック」ですが、作中の皮肉な造形とロジックが、その頃のバーカーの小説との親和性を感じさせます。

 間違いなくこの本の白眉で、最も重厚なのが、怪奇小説の巨匠ブラックウッドの、「古代の魔法」です。この作品が結局は、全てを掻っ攫っていったと個人的には思います。
 この作品は、ゴーストハントものの代表的なシリーズの一つである、ジョン・サイレンス博士ものの一編で、「いにしえの魔術」などの題名で、他の編纂集などにも度々掲載される、つまりは掛け値なしの傑作です。
 作品は、ひょんなことからフランスの田舎町に逗留する羽目になった、侘しい中年男の体験談です。時代から取り残された、閑静なこの田舎町は何かがおかしいと気付き、次第にそれが男を浸食し、徐々に抗い難く魅入られていく過程が、異様な迫真性を以て有無を言わせず読者に迫ってきます。徐々に盛り上がる怪異を、異様なまでに仔細に、かつ重厚に描く筆致は、ブラックウッドの独壇場とも言うべきで、彼の文体や世界観には、冗談が全く通じないような、教義的とも言うべき息の詰まる堅苦しさがありますが、それと題材が合致した時の突破力は、唯一無二といって良いと思います。この作品は、それが最も上手くいった作品の一つだから、時代の浸食にも抗い後世にまで残る力が、作中に漲っているのだと思います。
 そもそもブラックウッド自身が生粋の神秘主義者で、大自然や超意識といったスピリットを畏怖する、その本気ぶりが彼の作品の特質であり、反面教義的な息苦しさにも繋がっている気がします。この作品は重厚さに加えて、中年男の寄るべなき寂寥感をも切々と掬っており、久々に読み返しながら、嘆息が漏れるような気分を味わいました。ぐうの音も出ないというか、完全に出来が違います。
 因みに、ジョン・サイレンスものを通読すると分かりますが、ブラックウッドという人には、内面の激しい教義的世界観と、意気消沈した人への無類の優しさが混在しており、ジョン・サイレンスものを読んでいると、妙なところでいきなり涙腺を刺激されたりするので、どうにも困ったものです。「お疲れな人には、ジョン・サイレンスもの」なんて、世相を反映した斜めからの切り口も、マーケット的にありかも知れません(?)。
 何だか最後はブラックウッドの話ばかりになってしまいましたが、好きなもんでご容赦下さい。この作品はこの本だけでなくても読めますし、ジョン・サイレンスものは他にも傑作多数ですので、怪奇小説好きな方には、全力でお薦めしたい次第です。

 最後に余談ですが、この手のアンソロジーには珍しく採録された推理小説の大家、エラリー・クイーンの「七匹の黒猫」に登場する人物の一人の名前が、ハリー・ポッターでした。

「あの二年前の三月」

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 第43回お題 「空」
 題名 「あの二年前の三月」

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 鳩の帰巣率が低下しているようです。愛媛では空が落ちてくると怯え、心身を病んだ人が出たそうです。晴女だの雨男だのとよく言われますが、最近では虹女というのが現れて、刃物を持って追いかけてくると聞きますから、どうかお気を付け下さい。夜明け前に、空からシジミが降ってくるのも珍しくなくなりましたね。古来から左巻きの螺旋は不吉とされてますが、最近はそのような昇り方をする魂が増えましたね。空も色んなものを吸い上げ過ぎたせいか、いつも不機嫌そうな油膜色に濁って、夜は重油みたいに真っ黒です。こういったことは確か、大容量のAIを搭載した巨大衛星が宇宙に打ち上げられた、あの二年前の三月から増加しているんでしたね。

「ちょっとしたこと」

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 第42回お題 「遊ぶ」
 題名 「ちょっとしたこと」

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 サイダーの空き瓶を拾ったので、茎の長い白い花を差して通学路の電信柱に置いたら、数日後に花が新しくなってた。誰が変えたのって思ってたら、ある日、電信柱の下で、割烹着を着たおばさんがしゃがんでぶつぶつ祈ってた。通り過ぎる時に聴こえたけど、ずっと「堪忍、堪忍え」って。夜車で走ると、何かを轢いた音がする通りの噂が流れ出して、そのうち電信柱の脇に、「お願いだからもう死なないで」って書かれた看板が置かれて。怖いから家にいたら、窓から夕陽が部屋に零れてて、私のじゃない黒くて長い影が壁の角で折れ曲がって伸びてたから、窓を見たら誰もいないのに、「何で遊んでくれないの?」って男の子の声がして、すっごく怒ってて。

「DAMMED THING vol.03」

 季節の巡りは早いもので、もう文学フリマの季節がやって参りました。
 という訳で、5月6日(日)開催、第二十六回文学フリマ東京にて、ホラー小説専門同人誌、「DAMMED THING vol.03」を販売します。


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2016 11 23 4 DAMMED THING vol.3
 サークル WORLDBEANS
 江川太洋「祈り」
 はもへじ「柔術怪談」
 河野真也「呪いの証明」
 2018年5月6日(日)
 第二十六回文学フリマ東京 2F イー35
 ¥600円

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 今回も苦労しました。
 その甲斐あって、今回は「vol.2」の倍のページ数と、大幅にボリュームアップして帰って参りました。内容の方も手前味噌ながら大変充実した、それだけの枚数に見合った拡がりと密度を持った、読み応えたっぷりなホラー小説が3編集まりました。

 以下、簡単に、各作品の紹介をします。
 巻頭は私の小説ですが、どんな話を書こうか考えていた時に、内容よりも先に何だか寂しそうな女性のことが、外見も分からないままに朧げに頭に浮かび、何なんだろう、この人は…と思いながら、その人のことを書こうと思って書いた小説です。今までに書いたのとは、また違ったタイプの作品になったと思います。

 次に、はもへじさんの作品ですが、ずばり題名通りの作品です。
 読むと以外にも(失礼!)真面目な作りで、怖いところはきっちり怖いです。はもへじさんは実際に、少しばかり柔術の経験があったそうです。
 はもへじさんとお会いした時に聞いた話ですが、はもへじさんはご自分の作品に、二十代前半までの実家住まいの男性を主人公に設定して、意中の女性と出会う、という縛りを設けているそうです。言われてみると、「vol.2」に寄稿戴いた「コンビニ夜話」も、全くその縛りに則った小説になってました。何故そんな縛りを設けるのか尋ねますと、近くて遠い夢だから、とのことでした。

 巻末を飾るのは、ボリューム、内容共に、今回集まった作品の中では一番厚みのある、友人の大作です。
 読んだ瞬間、今回は迷わずこの作品を巻末に置くと決めました。聞くと、最後はほぼ三徹で仕上げたとのこと(ほんとすみません…)。
 作品を寄稿戴いた後、電話でも話をしましたが、舞台になった九州の山村は、友人の郷里がモデルになっているそうです。読んだ時に、村の情景、村人たちのやり取りやしきたりなどが、妙に生々しく迫ってきましたが、そういう理由があったようです。
 土着好き(?)にはたまらない、因習に覆われた村を描いたホラーの傑作です。

 今回も「DAMMED THING vol.3 FREE PAPER」を配布します。
 作品は2編収録。何が入っているかは当日のお愉しみです。店頭に置いてますので、ご自由に手にお取り下さい。
 「vol.2」のフリーペーパーも僅かながら余ってますので、こちらの配布します。

 また、前回販売しました、以下の本誌の方も、引き続き販売します。


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2016 11 23 4 DAMMED THING vol.1
 サークル WORLDBEANS
 河野真也「やまびこ」
 江川太洋「犬と老人」
 2018年5月6日(日)
 第二十六回文学フリマ東京 2F イー35
 ¥300円
 ※印刷に多々不備があり、値下げしています。ご購入時には、十分ご注意ください!

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2016 11 23 4 DAMMED THING vol.2
 サークル WORLDBEANS
 はもへじ「コンビニ夜話」
 河野真也「カスタム」
 江川太洋(原作 河野真也)「鳩」
 2018年5月6日(日)
 第二十六回文学フリマ東京 2F イー35
 ¥500円

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会場は↓です。

第二十六回文学フリマ東京
【会場】 東京流通センター 第二展示場 2F イ‐35のブースで販売致します。
【開催日】 2018年5月6日(日) 11時~17時まで開催します。
アクセスはこちら↓
http://bunfree.net/?tokyo_bun24#l1 

では、当日会場でお会いしましょう!

「今この時」

Twitter300字ss公募用掌編です(下記、主催アカウントの紹介文です)。

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 第41回お題 「新しい」
 題名 「今この時」

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 手続きと書類の二十年だった。市民課ではよく、「何か新しいことないかな」という声が聴こえた。その度に私は、新しいとは一体いつまでを指すのかと思っていた。新人の堤は一月もすると、古株のように職場に馴染んだ。近所では愛顧したカレー屋が店を畳み、替わりに赤いバルコニーの洒落たベーカリー屋が開店した。通勤の度にすれ違うスーツ姿の女性は髪形が変わり、毎日同じ車輌のホームで電車を待つ男の姿を見なくなった。同じ天候の日は二度となく、空は毎回違う表情の雨を降らせる。三月の暮れ、強風でこちらに吹き寄せる桃色の桜吹雪の只中にあって、私は今この瞬間にしか、こんなことは起きないと思った。要するに毎分毎秒が常に新しい。

「新入社員」

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 第40回お題 「人形」
 題名 「新入社員」

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 新入社員の曲谷を見た瞬間、実家にあった日本人形みたいな女だと思った。ボブの黒髪はおかっぱにしか見えず、小顔に収まる口は極端に小さく、目は逆に異様に大きかった。よく自席で前を向いて固まっている。呼ばれて振り向く首の動きがぎこちない。姿が見えないので探したら、倉庫で書類の入った段ボールを床に落とし、指を揃えた両手を直角に曲げた姿勢で静止していた。私に気付くと急に動き出した!ピアスを直そうと髪を掻き上げた時、襟足から覗いた銀色の縦線はチャックではないのか?人形のような女なのか、本当に人形なのか、今一つ確信が持てず、同僚の顔色を窺っているが、今のところ私以外に不信感を抱く人間がいないように見える。


「六人目」

 Twitter300字ssという公募用の掌編です。
 ツイッターをされていない方は、「何のこと?」と思われるかも知れませんので、下記に主催アカウントの紹介文を孫引きします。

 Twitter300字ssとは、月に一度最終土曜日に発表されるお題で、一週間掛けて300字の小説を書き、公開して交流や宣伝に役立てようという企画です。



 第39回お題 「試す」
 題名 「六人目」

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 石場瞳が車に跳ねられた瞬間をビルの非常階段から双眼鏡で目撃した私はすっかり落胆した。採取した彼女の使用済みナプキンで頭を覆った鼠の四肢を生きながら切断したのに、あの程度では大腿骨骨折がせいぜいだろう。自室に戻った私は迷った挙句、猫の眼球を用いることにした。彼女が路上に捨てた唾液混じりのガムで包んだ眼球を鉄釘で貫き、三十分の一に縮尺した彼女の生家の模型が入った水槽に沈めた。蛇剋水系の呪術を活用したこの行が上手くいけば、彼女の両目は膿と蛆が湧いて腐り落ちるはずだった。
 私が石場瞳を六人目の呪殺対象に選んだのに特に理由はなく、たまたま近所ですれ違った時に目に留まったからというだけのことだった。


2017年の活動状況

 ブログの主旨が同人誌の活動報告なのに、あまりにも更新頻度に乏しい為、今年一年の同人活動を振り返ることにしました。
 ツイッターを始めたのはごく最近ですが、そこで他のサークルさんの活動状況や創作の裏話などを、興味深く拝読させて戴いたこともあり、次年度への反省等も含めて、活動を振り返るのも良い機会かなと思いました。

 (おことわり)
 書いた小説の裏話をつらつら書いていきます。
 ネタバレにはならないと思いますし、そもそも頒布数が少ないので問題ないかとは思いますが、少しでも情報は入れたくないという、当誌をご購入された方がおられましたら、本誌を読んだ後に読むことをお薦め致します。



 そもそも、同人イベントに行ったこともなければ、同人誌自体を読んだこと自体が殆どなかったので、下見のつもりで、昨年11月の第23回文学フリマに一般客として行き、ホラー系の何冊かの同人誌を読み、既に同人誌の創刊経験のある方に色々と教えを乞い、周知活動の一環としてブログを開設し…といった具合で、昨年は細々と下準備を進めておりました。
 当誌に2回続けてご寄稿戴いた友人(今、ペンネームを考えているそうですので、あえて名は伏せます)に、寄稿のお願いをしたのも、この時期だった気がします。表紙のイラストなども担当して戴き、大変感謝しております。

 同人誌の青写真としてあったのが、以前も述べましたが、アメリカの怪奇幻想専門パルプ誌、「ウィアード・テイルズ」でした。創刊号のテーマを怪物としたのは、「ウィアード・テイルズ」へのオマージュからです。
 今後、同人誌にテーマを設けるか否かについてですが、基本的にはノーテーマの方針で行きたいと思います。
 そもそも、「ウィアード・テイルズ」自体が、SFあり、ファンタジーあり、犯罪小説の流れからのものもあり…といった具合に、ジャンルのごった煮でしたし、個人的にも書く際は、なるべく自由に伸び伸びと書きたいので、仮に特集があっても稀になると思います。
 来年はできれば、他のサークルさんのアンソロジーに参加できればと思っておりますが、これについては、テーマの拘束下で書くことを課すといった感じで、個人的には修行と位置付けております。
 そういった経緯から、ドタバタとどうにか創刊に漕ぎ着けたのが、下記の同人誌です。
 今年5月の、第24回文学フリマ東京に出展したのが、下記の2冊になります。


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2016 11 23 4 DAMMED TIHNG VOL.1
 河野真也「やまびこ」
 江川太洋「犬と老人」







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 ここでは自分の作品のみ触れます。
 因みに「やまびこ」ですが、正調の心霊実話作法に則った、じわじわと怖い(面白い)小説ですので、是非読んで戴ければと思います。

「犬と老人」ですが、元々は後述する「FREE PAPER VOL.1」に発表した、「影が呼ぶ」という短編を本誌に掲載するはずでした。
 昨年の文学フリマに行った時に、製本されたフリーペーパーがあることに感銘を受けて、自分も創刊の折には、製本されたフリーペーパーを発行したいと思いました。フリーペーパー用の原稿を間に合わせる為に、短くて済むお話をと、半ばデッチ上げのように考えたのが、「犬と老人」でした。

 後述する「影が呼ぶ」に非常に時間を取られ、猶予が殆どなかった為、「犬と老人」は、ほぼ二徹で訳も分からずに書いた短編です。そもそも「影が呼ぶ」自体が、主な登場人物がたった二人しか出ないのに、想定以上に長い話になった反省から、人が一人と犬なら、もっと短くなるだろうと書いたら、もっと長くなってしまったというのが実情です。結果的には、掲載する作品を入れ替えて正解だったかなと、自分では思っております。

 他ですが、
 テーマが怪物ですので、「わんさか怪物が出る小説」
 「誰も知らない、孤独な闘いを描く」
 こういうことがやりたくて書いた小説です。

 私は原則的には、プロットは立てません。たいていいきなり書き始めます。何故プロットを立てないかといいますと、作るのが苦手というのもありますが、それ以上にプロットに縛られずに、自由に書きたい気持ちが強いからです。
 予め筋の流れが見えるということは、著者にとっては作中の未来が見えるということで、それがとても嫌です。自分の時間感覚と合致しません。書いていて、自分でも何が起きるか分からない方が好きですし、そういう狭い視野を手探りで歩むことでしか見えない、「何か」が描ければ、という気持ちがいつも念頭にあります。
 即興で書いて行き詰まった場合は、行き詰まった起点まで遡って、もう一度そこから書き直します。最初から書き直すこともよくあります。
「犬と老人」はとにかく勢いだけで書きましたので、「あ、こういう話なのね」と自分で思えたのは、作中の後半で、犬が怪物に捕まる場面を書いている時でした。

 余談ですが「DAMMED THING VOL.1」で大変だったのは、執筆よりも入稿用データの作成の方でした。誤字脱字多数、印字の濃さの違いなど、酷い仕上がりの癖に何言ってんだ…と思われるでしょうが、最後まで印刷屋さんから確認連絡が来るなど、GW期間は気が気ではなかったのを覚えてます。

 本誌の宣伝用に配布しましたのが、下記のフリーペーパーです。
 


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2016 11 19 FREE PAPER VOL.1
 江川太洋「影が呼ぶ」







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 先に述べた通りで、元はこちらを本誌用に書いてましたので、この短編も怪物テーマの小説になります。
 この時は、本当にネタが浮かばず四苦八苦しました。
 例えば「怪物」など、テーマから発想をすると、私の場合、たいていドツボに嵌まるようです。実は実現しなかった、書きたい怪物テーマの小説があったのですが、これは取材が必要だと思い、取材のノウハウも皆無だった為、取材なしで書ける小説を…ということで、つらつらと考えていた記憶があります。

 怪物といえば、怪物がバリバリ暴れ回るパワフルなお話だろ、という思い込みがあり、そういうお話を書きたかったのですが、結果は読んでの通りで、そういうのとはちょっと違うお話になっています。プロットを立てずに書くと、よくこういう結果になりますが、自分では素直に流れに従った結果と受け止めています。

 この時、ネタ出しの為に考えていたことが、怪物は一体何処から来るのだろう、という疑問でした。それは異次元からに違いないというのが、私の出した安直な答えですが、その異次元を繋ぐ回路が、人間の記憶の中にあったとしたら…そういう発想で書いた小説です。
 また、たまに通うバーの店長さんから聞いた実話――中学の時、何かの壁を見たら、壁一面に顔が浮かび上がっていた、という逸話が念頭にありました。家の中に顔を見て、それが壁伝いにいつまでも続いている、それを辿っていくと、次第にもう取り壊された、過去にしか「ない」部屋に辿り着く、そこは事件の起きた場所だった…こういう展開を考えておりました。

 書くのにかなり難儀して、一月くらい何度か書き直したのを覚えています。最初は妻の視点から描いていましたが、どちら側から描いた方が怖いのかを考え直して、夫の視点に替えてもう一度最初から書き直しました。

 約半年後の今年の11月、第25回文学フリマ東京に出展したのが、下記の2冊になります。


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2016 11 23 4 DAMMED THING VOL.2
 はもへじ「コンビニ夜話」
 河野真也「カスタム」
 江川太洋(原作:河野真也)「鳩」







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 今回も友人が、小説の寄稿、表紙デザインなど、八面六臂の大活躍を見せてくれました。
 はもへじさんですが、当ブログ経由で面識を得て、面談の上、小説を寄稿戴ける運びになりました。「コンビニ夜話」は、当人が言っておりました、「エロいホラーが書きたい」という狙い通りの一編です。
 前回に引き続き、寄稿を戴いた友人の「カスタム」ですが、作品自体に恨みの念がたっぷりと込められた、なかなか壮絶な一編です。

 「鳩」につきましては、巻末のコメントにもありますが、実は友人が二十年前に撮影までしながら、諸事情で頓挫した、映画の脚本が原作です。私は原作を読んだ時から、これは面白いなと思ってまして、撮影が頓挫したのもあり、この作品を世に送り出す機会を作れればと思い、友人の承諾を得て小説化しました。所謂ノベライズに非常に近い執筆体勢でした。
 後に原作者の友人に読んで貰いましたが、「原作とは全く違う話」になっているそうです。
 かなり意図的に改竄を加えましたが、原作でやっていることが面白いので、設定をそのまま残してある箇所もあります。

 この小説は本当に難儀しました。何度書き直したか分からないくらい、とにかく書き直してました。執筆には二ヶ月くらいかかったと思います。全く筆が動かなくなった時は、また主役の性別を替えるという方法で、どうにか乗り切りました。
 難儀した理由は様々ですが、一番の理由は、この原作(または自分が書いている小説)自体が何なのか、私には全く分かっていなかったからです。正直に言いまして、書き終わった今もよく分かっていないのですが、分からないけど面白いと感じたことを、そのまま書いて良いのか、といった部分で相当逡巡したのを覚えています。分からなくても大丈夫という結論を得るのに、何度も書き直す必要がありました。
 プロットもいらなければ、テーマもいらないと、自分の中では大きな気付きを得た作品でもあります。

 題名にもある、「鳩」の扱いにも、頭を悩ませました。これは何を意味しているのか…などと一端考え出すともう駄目で、この思考ループから脱却するのに、けっこうな時間を要しました。結果、得た答えは実に単純なもので、「鳩は鳩だろ、意味なんてねえよ」というものでした。要所で鳩を描写すれば成立すると確信を得るまでに、数回書き直しております。

 この小説では、怪異の原因などについては一切触れられておりませんが、それは意図的にそうしました。私は、怪異は融通無碍なものだと思っていますので、作中で因果が明らかになる必要は全くないと思っております。そういう姿勢が露骨に出た小説だと思います。
 作中の怪異を体現する、ある人物が、一体何者なのかということについては、実は私の中ではある程度答えがあるのですが、分かったところで特に大事とも思えませんので、ここで触れるのは控えます。

 この小説を書く中で、「力を振り絞って書く」ということを経験できたのは、私にとっては実に得難い経験でした。この体感が身体の一部にまだ残っていれば、いつか、またそこまで辿り着けるのでは、と思っております。今もそれを目指して、別の小説を書いているところです。
 仕上がりの巧拙については色々あると思いますが、これが現時点でのベストと、自分では思っております。


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2016 11 19 FREE PAPER VOL.2
 江川太洋「スマホロイド」








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 この小説は、前述の「鳩」に時間がかかり過ぎて、新作を執筆できなかったので、ピックアップした過去作になります。新作を書けなかったのには、今でも悔いが残っております。
 満員電車の狭い空間内で、無理にスマホを見る人に本当に苛々していて、スマホの角が背中に当たって痛かったりするのです。あれは本当にご勘弁下さい。
 作中で、そういう人間をけちょんけちょんにしてやる、という子供じみた動機だけで書いた小説です。
 書いている間は、無闇に面白かったのを覚えております。
 あと、最近何かと世相が息苦しいという漠然とした思いがあって、それは多少作中に反映させたいとも思っておりました。
 それ以上、この小説について述べることはありません。

 

 今年一年はこのような感じでした。
 頒布数は恥ずかしいので控えますが…とにかく本が売れませんでした(涙)
 事前の周知活動も必要なのではと思い、ツイッターを始めたのがつい先日でした。これは執筆と同じくらい、私の中では大きな体験でした。私はこういうイベントは文学フリマしか知りませんでしたが、まだまだ同様のイベントがあることや、他のサークルさんの取り組みなども、非常に参考になりました。
 ツイッター上では、アンソロジーの参加告知も活発に行われておりますので、来年は我々の冊子だけではなく、武者修行のつもりで、アンソロジーにも参加できればと思っております。書く量を増やせれば、書きたいお話は幾らでもあるのです。
 

 同人誌を出して人目に触れることで得た幾つかのご感想は、自分にとっては大きな励みですが、私の場合、それよりも大きかったのは、とにかく外部的に締め切りを設けて、書く環境を強引に作ったことで、自発的に書くようになったことに尽きます。
 一つ告白しますが、今は執筆に使っているPCのすぐ上の壁に、受験生みたいに貼り紙をしています。それを見ますと、仕事疲れで消耗した夜も、少しは書こうかなという机に向かう気になります。
 私には実に効果的でしたので、腰が重いとお悩みの方がいましたら、お薦めしたい次第です。

 他、5月から11月の半年の猶予期間中に、発表する見込みのない中編を一つ、短めの長編を一つ書いております。
 発表に値しないとの判断から、それらの作品は手を加えない限り、何処かに発表する機会はないと思います。
 自分には、長編執筆は万里の長城並みに遠いと思っておりましたが、書くと意外とそうでもないなあと思えたのは、大きな経験でした。執筆には、「鳩」の方が、よっぽど時間がかかっております。
 来年は、ちゃんと発表できると思える長編を書くというのが、私の密かな想いです。
 


三津田信三「怪談のテープ起こし」

20070108195529[1] 怪談のテープ起こし
 三津田信三
 集英社






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 今回ご紹介しますのは、以前「赫眼」をアップしました、推理小説とホラー小説の双方に跨って、旺盛な執筆活動を続ける三津田信三のホラー短編集、「怪談のテープ起こし」になります。
 今回も「安心と信頼の三津田信三」ブランドは健在です。矛盾するような言説になりますが、とにかく安定して怖く、個々の作品のバラつきが極端に少ないのは、本当に驚異的です。最近も、「わざと忌み家を建てて棲む」という、厭な題名の小説も上梓されたようです。これは早く読みたいところです。

 三津田信三のホラー小説の主な特徴につきましては、前回の「赫眼」の記事でも私見を書かせて戴きましたが、その大きな特徴の一つに、著者の身辺雑記的な描写から始まるという、メタフィクションの手法がどの作品でも取り入れられている、ということがあります。このメタフィクションの援用には、主に以下の二点の狙いがあると思われます。
 ①心霊怪談テイストの小説の、現実感を補強する為
 ②その小説の話者を明確にする為
 ①と②は小説の中で分かち難く結び付いているものですが、②につきましては小説によって、ほぼ聴き起こしのような一人語りの体裁もあれば、体験談を著者が小説として再構成したという体裁の三人称叙述の小説もあります。
 そもそも②を小説毎に律義に規定すること自体が、他の小説家には殆ど見られない姿勢だと思いますが、これはどの視点から小説を語るかを、創作上の姿勢として、著者が非常に重視しているからだと私には思えます。②をきっちりと規定していくということは、一体誰の視点で語れば、この小説は最大限に怖くなるか、ということを著者が常に考えているからだと思います。小説における視点の選定には、まず一人称か三人称か(二人称もありますが、ここでは割愛します)という選択がありますが、三津田信三の場合、その選択の先に、これは体験者の自語りが良いか、著者が三人称(あるいは一人称)に再構成した方が良いかという、より当事者性を強調する選択が続く、といった按配です。この選択が見事に効果を発揮した成果が、三津田信三のホラー小説の大きな特性の一つであると、私は考えます。

 
 上記の特性を踏まえ、今作で著者は、さらに現実感を補強する為の仕掛けを講じてきます。
 今までの著者の短編集は、独立した短編が並ぶ、通常の短編集の構成でしたが、今作では小説と小説の間に、序章、終章、幕間を設けて枠物語の体裁を取ることで、短編全体を接ぎ木して一貫性を持たせ、より現実感を補強する試みを行っております。枠物語自体が、この著書を上梓するにあたっての、著者と編集者のやり取りという、まさにメタフィクション的な構成になっております。今作は、枠物語の中にも各短編にも、現実とのリンクが補強された、二重のメタフィクションという構成になっております。
 また、その枠物語によりますと、今作の大半が怪談のテープ起こしを再録、再構成したという設定になっており、ついに記憶にある逸話ではなく、テープという記録媒体からの聴き起こしという、実に物々しい領域に今作は達しました。
 初のホラー短編集の「赫眼」の時点で、方法論的には既に高いレベルで完成されており、しばらくはその方法論に従って執筆を進めてきた著者が、ここに来てさらに方法論を深化させようとする、創作上の向上心が窺えた気がして、その姿勢に私は感銘を受けました。

 このような構成で書かれた作品ですが、基本的に完全に外した作品は、一作もないと思います。
 小説の中でも著者自身が述懐しておりますが、「黄雨女」と「すれちがうもの」が同工異曲のような小説になっております。どの短編も「徐々に接近してくる怪異」を扱った短編ですが、設定も展開も異なりますので、私はむしろ、同工異曲の作品を仕上げるパターン差を読めた気がして、却って非常に勉強になりました。
 この短編集の白眉は、「留守番の夜」、「集まった四人」、「屍と寝るな」の三作だと私は思います。
 どの作品が好みかは、それこそ個人主観によりますが、私は「集まった四人」が一番怖いと感じました。音ヶ碑山という山に登山することになった四人の話ですが、まず四人共通の招待者(四人は招待者とはバラバラに接点があって、全員初対面です)が、用事で来れなくなったと急に連絡が入る時点で、もう既に物語から不穏な気配が漂います。音ヶ碑山にまつわる不吉な伝承、それを示すような痕跡、場所自体の忌わしさ、魔に魅入られて人格が変わってしまう人物たち、何もかもが怖いです。何より厭なのは、人格が変わって完全に魔に取り込まれてしまった人間たちを、「傍から見る」という状態です。当人が直截的に怪異に遭遇するのとはまた違った、嫌な怖さがあります。
 話自体にどうも事態のはっきりしない厭な感じがあって、最後である解釈が示されたことで却って混迷を増す、奇妙で不可解な「屍と寝るな」、一晩だけある豪邸の留守番を頼まれる羽目になった人の怪談、「留守番の夜」、いずれも出色の出来だと思います。
「留守番の夜」では、「ずっと部屋にいるから、全く相手にしなくていい」という住人の存在が示されますが、同じ家に居ながら全く存在感のない同居人は、完全に恐怖の対象でしかありません。私はこの小説を読みながら、こちらも非常に不穏な、ダン・カーティス監督の「家」という映画を思い出しました。原作はハヤカワ文庫のモダンホラーセレクションで出版された、ロバート・マラスコの「家」です。私は原作は未読ですので、いつか是非読んでみたいです。
 
 

中村融編「千の脚を持つ男」

20070108195529[1] 千の脚を持つ男
 シオドア・スタージョン他 中村融編
 創元推理文庫






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 さて、今回ご紹介させて戴きますのは、近年、創元推理文庫を中心に、「街角の書店」、「夜の夢見の川」など、SF・ホラーなどのジャンルで次々と名アンソロジーを編纂されている翻訳者、中村融編の怪物ホラー傑作選、「千の脚を持つ男」になります。

 怪物といえば、私も「ウィアード・テイルズ」に倣って創刊しました同人誌、「DAMMED THING Vol.1」で、テーマを怪物にしましたが(一つ妖怪ネタも混じっていたような…)、怪物ネタの場合、お話自体のアイデアを考えると同時に、どんな怪物を創造するかという怪物のアイデアも同時に問われるのだなあ…という印象を持ちました。私の場合は、何とも苦し紛れだった、甘い記憶があります。という訳で今作なのですが、お話良し!怪物良し!と、バラエティに富んだ怪物テーマの短編が10編揃っております。おそらくこの一冊で、怪物のカテゴリが一通り敷衍できるのではないかと思うような、素敵なアンソロジーです。
 編者が巻末に解説を記しておりますが、それによりますと、本作は編者が幼少期の頃に多大な影響を受けた、「ウルトラQ」を、紙面で再現したかったのだそうです。

 
 巻頭ですが、実にオーセンティックな怪物である、不定形の怪物(スライム、ブロブと呼ばれているあれですね)を扱った、ジョゼフ・ペイン・ブレナンの「沼の怪」から幕開けです。深海で悠久の昔から存在する不定形のそれの生態を克明に記した、非常に長い時間軸の描写から始まった冒頭から、アメリカ西南部(?)の沼の近くの近隣住人の逸話へ移る間の、急に身近な展開になったな、という強引な接ぎ木感が、妙に愉しい一編です。沼に潜む怪物が次々と人間を喰らい、警察が出動し…と、展開自体も極めてオーセンティックで、冒頭に打って付けの作品だと思います。

 個人的印象ですが、作中一番面白かったのが、SF界の大御所シオドア・スタージョンの「それ」です。ある森の腐葉土から発生した怪物を扱ったこの作品ですが、森に住む一人娘のいる夫婦と、夫婦の営む牧場を手伝う夫の弟の四人がそれぞれバラバラに行動して、怪物に遭遇する過程が、三人称多視点の描写の中で、実にスリリングに展開する、没入度では群を抜いて際立った一編になっております。
 また、秀逸なのが、おそらく他ではあまり見ないような怪物の概念で、やはり怪物自体のアイデアということになりますと、SF小説家のそれは非常に秀逸であり、なかなかホラープロパーな小説家にはない発想の仕方をするものだと、改めて思わされました。怪物は民俗学的アプローチにも、科学的アプローチにも、両方良く映える存在です。一時期隆盛を誇ったディーン・R・クーンツにしましても、元々はSF小説家だったのですし、この分野に多くのSF小説家が参入して欲しいと、切に願うばかりであります。

 怪物の気持ち悪さという点では、R・チェットウィンド=ヘイズの「獲物を求めて」が一歩抜きん出ております。怪物を描く上で一つの大きなポイントが、どれほど生理的嫌悪感を際立たせられるかかと私は思いますが、この小説の怪物は、個人的印象ですが、実に厭なフォルムをしております。少し人のよすがが残っているというのが、本当に厭です。お話自体もある有名なモンスターを扱った変種の小説で、捻った設定も作品に一役買っていると思われます。

 標題にも使われました、「千の脚を持つ男」の著者、フランク・ベルナップ・ロングですが、この人は筋金入りの米国パルプ誌作家で、「ウィアード・テイルズ」の代表的な寄稿家の一人でもあります。編者によりますと、ロングは「怪作王」の称号を謹呈したい小説家だそうでして…まあ、全く仰る通りで、二言もございません…。
 そのせいか、編書中でこの人の小説だけが、明らかに他の小説からは浮いた妙なちぐはぐ感と、独特の熱量と強引さを感じさせ、そういう意味では一際目を引く、めくらましのような一作になっていると思います。この小説が執筆された1920年代後期は、既に米国パルプ誌は百花繚乱を迎えており、特にSF・ホラー系では、マッドサイエンティストの身勝手な探究心が、とんでもない悲劇を生むという小説が、それこそ雲霞のごとく発生したのですが、たいていそこで描かれるマッドサイエンティストは、根本的に思慮が浅く、とても頭の良い人に見えないのが、何とも面白いと思うところです。
 勿論、「怪作王」(笑)が満を持して放った、作中の科学者の頭が良いはずもなく、この人が奮闘すればするほど、事態は雪ダルマ式にとんでもない状況を迎え、ひょっとして、これは新手のギャグなのかなと思うほど、痛快で面白い一作になっております。この小説は、まだ未読の方がおりましたら、是非ご一読願えればと、心から祈念するところであります。

 そして、巻末で編書をきっちり締め括ってくれるのが、こちらも英国SF小説の大家、キース・ロバーツの力作自動車ホラー、「スカーレット・レイディ」です。意志を持つ機械というのは、立派な怪物の一種であると、この編書では位置付けられておりますが、この小説の自動車の忌わしさは相当なものです。私はこんな車には、絶対に乗りたくありません。あまり書きますとネタバレになるのであれですが、自動車全体どころか、部品の一つ一つまでが周囲に災厄をもたらす辺り、相当強烈な“意志”を持った自動車です。また、主人公の職業が自動車修理工というのが実に秀逸な人物配置で、私は疎いのですが、作中の大半を占めるメカニック描写を交えながら、修理工の観点から見ますと、この異形の自動車の異形ぶりが、より一層際立ってくるという、読み応えたっぷりの力作に仕上がっております。

 怪物はパターンをカテゴリ化してしまいますと、おそらく究極的には十指に満たないと思いますが、大事なのはあくまで描き方とツイストであると、読みながら再確認させて戴きました。そういう意味では、カテゴリの少なさとは無縁に、今後も素晴らしい怪物ホラーを生む余地はまだまだあると思われますし、私も「犬と老人」という短編でけっこうしつこく怪物を描いたつもりですが、まだまだ全然足りていないと思うのが本音です。
 実は「犬と老人」は、「怪物がバリバリ人を喰いまくる」お話にしたかったのです。結果はそうはなりませんでしたが、今度こそそういうお話を思い付きましたので、しっかり下準備をして、いつか書いてみたいなという意欲を触発された読書体験でもありました。私にはSFマインドは皆無ですが、手持ちのホラーマインドで、何とかこの怪物をものにしたいと思っております。

ロアルド・ダール編「ロアルド・ダールの幽霊物語」

20070108195529[1] ロアルド・ダールの幽霊物語
 L・P・ハートリー他
 ハヤカワ・ミステリ文庫






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 やっと同人誌イベントも終わり、執筆も一段落しましたので、久々に更新します。
 著者のロアルド・ダールという人ですが、「あなたに似た人」など、捻りの効いた、所謂「奇妙な味」の作品を数多く残した重鎮です。ダールは無数の過去の怪奇小説の短編群から、1話完結のテレビドラマに仕立てる為に名作を選出しましたが、結局はドラマ化の企画自体が頓挫。残されたラインナップから、十四編の怪奇小説を再選出したアンソロジーになります。
 ダールは古今の名作と呼ばれる短編を七百編以上読み漁り、「恐怖を与えるもの」を基準に、厳しい採点方式で作品を選出したその成果が、本書になるそうです。厳しく選出されただけあって、さすがに全体的に質の高い、優れた怪奇小説のアンソロジーになっていると思います。

「恐怖を与えるもの」を基準にしますと、下記の二点の傾向が強くなることは、どうしても否めないようです。まず最初に、大半がどこかで既に選出された名作中心になってしまうこと、次に、大半が幽霊譚になってしまう点です。とうの昔にホラーは様々に細分化し、必ずしも怖さだけを追及するものではなくなったのは、誰しもが何となく認識している事柄かと思いますが、こと真面目に怖さを追及し始めますと、その門は存外狭いのかな、という印象を読みながら受けました。やっぱり怖いとなりますと、私たち人間と同じ姿ながら、異界の存在である幽霊に帰着せざるを得ないのでしょうか?かつてのポーやラブクラフトなどのように、新たな恐怖像が更新された歴史は、確かに過去にもあったのですが、しかし、それが本当に怖いのかと考えますと、そこは個人的主観も含め、色々と考えさせられるものがあると思います。

 また、このアンソロジーの編者のダールらしいところは、幽霊譚の中でも捻りの効いた作品が多いところかと思われます。その典型的な例が、モダンホラーの代表的な作家、L・P・ハートリーの「W・S」かと思いますが、見知らぬ他人から届いた絵葉書、という他愛のない出だしから、気付きますと事態は異様なものになっているという、ハートリーの技巧が冴えた作品になっています。
 「怪奇小説傑作集2」にも既訳のある、イーディス・ウォートンの「あとにならないと」や、老婆の奇妙な習性が最後に一息に明かされる、Ex-プライベート・Xなる変なペンネームの小説家(A・M・バレイジの変名)の「落葉を掃く人」なども、それぞれに一工夫が凝らされた小説だと思います。

 ここから先は個人的見解になりますが、特に読み応えがあったのが、下記の二作です。
 三兄弟、全員怪奇小説に手を染めたベンスン兄弟の次男、E・F・ベンスンの「地下鉄にて」は冒頭から、有限である時間と空間は想像ができない、という宇宙認識から端を発し、その過程の中で徐々に霊体が実体化するという、今読んでも十分に面白く、かつ霊体が具現化する描写も堂に入った、実に素晴らしい短編です。不勉強にして私は、E・F・ベンスンの小説はあまり読んだことがないのですが、名作「いも虫」にしましても、一筋縄ではいかない奇想溢れる小説で、まずアイデアが何よりも素晴らしい小説家だと思います。ほんと、キングの対極のような小説家です。
 個人的に最も印象深かったのが、この選集で最も尖った小説家、ロバート・エイクマンの「鳴りひびく鐘の町」です。このエイクマンという人は、従来のホラー作法からは大きく逸脱して、怪異の原因が分からないばかりか、その怪異が本当にあったことかすら疑わしい、といった独自の婉曲的表現に辿り着いた人です。寂れた土地に新婚旅行に来た夫婦の一夜を描いたこの作品は、エイクマンにしては実に真っ当な幽霊譚ですが、メインアイデアの馬鹿馬鹿しさは特筆ものです。よくこんなアイデアで書くなあ…と思いますが、ところが!それもエイクマンの筆にかかりますと、土地の情景、怪し過ぎる住人たちの描写など、エイクマンのいいように、読者は徐々に不穏な領域に引き込まれてしまいます。ここではクライマックスは明かしませんが、かなり壮観です。一種の奇想に、見事に骨太な実感を与えられるエイクマンの筆遣いには、ほんと痺れました。こんな自在な筆さばきができたら、ほんと執筆が愉しいだろうなあ…と羨むような筆遣いです。

 さすがに選ばれた全ての作品が怖いと思いませんでしたが、私見ですと、「徐々に怪異が近付いてくる(或いは露わになる)」パターンの作品は、怖くできる余地がまだあるのかなと考えておりまして、このパターンの作品が多かったように思われました。典型的なのは先のハートリーの「W・S」と、シンプルながら怖い、ローズマリー・ティンパリ―の「ハリー」辺りでしょうか。
 本当に怖さを追求する際に、この本が座標軸になるとまでは言い切れないと思いますが、思い返して考えるには十分な、素敵なアンソロジーだと思いながら読ませて戴きました。
 

「DAMMED THING vol.02」

亀レスすみません。
ずっと原稿書いたりでバタバタでした。また懲りずに創刊します。
(実は入稿データ確認待ちで、大丈夫かなと不安の真っ只中ですが…)

ホラー小説専門同人誌、「DAMMED THING vol.02」です。


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表1
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アメリカの怪奇専門パルプ誌、「ウィアード・テイルズ」もどきの同人誌を謳っているところを、今回はあまり、「ウィアード・テイルズ」色は強くないかも知れませんが、その分ノーテーマで伸び伸びと書いて戴いたこともあり、三者三様のそれぞれ違った面白さのある小説が集まったかなと、手前味噌ながら思っております。
画像が見辛くて大変恐縮ですが、価格は300円になります。前回販売して売れ残り多数(涙)の、「DAMMED THING vol.01」も、一部200円というお求め易い価格で販売しております。1作品100円という単純計算にしました。1が2作収録、2が3作収録です。
予めお伝え致しますが、「DAMMED THING vol.01」は印刷データに不備があり、本文の文字の濃さが薄い部分等があり、読み辛い部分があるかと思います。前回、お買い求め戴きました方には、大変ご迷惑をお掛け致しました。この場を借りて、伏してお詫び申し上げます。誠に申し訳ございませんでした。今回の「DAMMED THING vol.02」は、大丈夫なはずです…。
会場は↓です。

第二十五回文学フリマ東京
【会場】 東京流通センター 第二展示場 2F ウ‐29のブースで販売致します。
【開催日】 2017年11月23日(日) 11時~17時まで開催します。
アクセスはこちら↓
http://bunfree.net/?tokyo_bun24#l1 

当日は、2Fの見本誌コーナーに見本誌も用意しますので、ご興味のある方は、是非お手に取って戴ければ幸いです。今回もフリーペーパーを用意致しました。モノクロですが、一応ちゃんと製本してあります。ご自由にお取り下さい。本誌とは別の短編を一つ収録してあります。


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今回、本当に難産で、正直止めようかと気持ちが弱くなりましたが、ご寄稿戴いた方の小説が面白かったので、自分のはともかくこれは世に出したいという思いで、どうにか創刊まで漕ぎ着けました。いつかは未定ですが、また次回もいずれ創刊できればと今のところは考えております。
それでは、当日会場でお会いしましょう!

カーステン・ストラウド「ナイスヴィル 影が消える町」(上下巻)

20070108195529[1]20070108195529[1] ナイスヴィル 影が消える町(上下巻)  
 カーステン・ストラウド
 ハヤカワ文庫






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 このカーステン・ストラウドという小説家ですが、カナダ人で、「狙撃警官キーオウ」など、主に警察小説を書いてきた人だそうです。その彼が始めて書いたホラー小説が、今回紹介するこの「ナイスヴィル」で、このシリーズは全3部作になっています。3部ともハヤカワ文庫から出版されています。

 ナイスヴィルとは、作品の舞台になっている、アメリカ南部の架空の町のことです。ナイスヴィルは、全米の平均の5倍もの行方不明者が出る町でした。この小説の序章は、不可解な状況で行方不明になる、ある少年の捜査の顛末から始まります。そこから長い本編が始まるのですが、話は急に1年後に飛び、序章の少年の行方不明の事件以外にも、大小様々な事件を挟みながら、主人公の警官たちが、ナイスヴィルという町に潜む、葬られた歴史に徐々に迫っていく――というのが、お話の骨格になります。

 読んで驚かされるのが、序章と本編の落差の大きさです。序章は少年の捜査を続けるうちに、通常ではあり得ない不可解な状況が示されるという、真っ当なホラー的展開を迎えますが、続く一年後では、いきなり銀行強盗犯を追うパトカーを、共犯者が狙撃するシーンから始まります。いきなり犯罪小説そのものの展開になり、読んでいて、「あれ?」となります。以降、続く本編も、完全に犯罪小説色の方が強く、悪党たちが互いを出し抜く丁々発止のやり取りが延々と描かれ、ホラー的要素はあくまで添え物といった印象です。普通、ホラーを謳うなら逆のバランスで然るべきところを、まるでエルモア・レナードの世界を読まされているような気分にさせられるところが、この小説のけったいな点です。

 
 この手のジャンルミックスにも、様々に噛み合わせがあると思いますが、少なくともこの小説を読む限り思うことは、猥雑な犯罪小説とホラーの噛み合わせは極めて悪い、ということです。犯罪小説では、たいていの犯罪者は、ハードで視野の狭い自分の境遇をいかにリアルに生き抜くか、という現状認識になりがちですが、この身も蓋もない生活に根ざしたリアル感と、融通無碍を基調とするホラーの世界観が、全く相容れないのです。「身近な幽霊より、身近な殺し屋(明日の破産)の方が怖い」と言われれば、確かにその通りかも知れませんが、そうなるとたいてい身近でリアルな墜落の方が、どうしても説得力を持ってしまう…そういうことだと思います。

 著者は、自らが得意とする犯罪小説や警察小説の世界に、ホラー的世界観を持ち込んだら、きっと面白いに違いない、という考えが元にあって、このシリーズを書き始めたと、私は勝手に想像しますが、もう少しその結果について考慮して欲しいと思いました。批判を承知で言いますと、この著者にはホラーへの適性がないと感じられます。上手く言えませんが、ホラー小説には、ホラーをホラーたらしめる雰囲気や香気のようなものが、否応もなくあると思います。型通りにホラーのルーティンを踏襲すれば、ジャンル分類上、それは確かにホラーのカテゴリには入るのですが、それはあくまで型をなぞっただけであって、この小説にはそれを成立させる核が欠落しているように、私には感じられました…この小説を読みながらずっと考えていたのは、ホラーをホラーたらしめる何かについてでした。それが上手く言えれば、こんなにいいことはないのですが。作中の登場人物の(或いは読者の)リアルな現状認識を覆す、非論理的(超常的な)な忌わしさを、ある種の皮膚感覚として描き得るのか…それだけでもないと思いますが、あくまでこういう部分がホラーとしての基調になるのではないかと、私は思います。

 今回、私はかなり批判的に書いてますが、当ブログはホラー小説の紹介サイトではなく、個人的主観を綴ることを主旨としていますので、ホラーについて自分なりに考える契機として、今後も中には批判する小説があるかと思いますので、一応ここで述べておきます。

 この著者が全くホラー向きでない、もう一つの理由として、作中の登場人物の大半が、または親戚や友人を含めても、警察関係者ばかりなのです。私の日常では、警察関係者の親戚はいませんし、ご親族に警察関係者がいる友人が一人いるくらいです。本当にこの著者は、そういう世界に近い環境にいる人なのだということが、こういう部分から分かります。でしたら、素直に自分の資質を発揮できる、そういう世界の小説に邁進した方が良かったのではと、読みながらずっと思っていました。因みに犯罪小説として見た場合、私はこの分野に詳しくなく恐縮ですが、展開は山あり谷ありと起伏に富み、その人種のハードな世界観もよく描かれていて、そこは愉しく読ませて貰いました。因みに、私はこの続きは読まないと思います。

ウェルウィン・W・カーツ「魔女の丘」

20070108195529[1] 魔女の丘
 ウェルウィン・W・カーツ
 福武文庫






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著者のウェルウィン・W・カーツは、カナダの小説家で、児童文学を中心に書いているようです。
このホラー長編も、児童文学として書かれたものだそうですが、
巻末の金原瑞人の解説にもある通り、児童文学の中では読み応えのある、思わぬ拾い物といった佳作です。

お話ですが、英仏海峡に浮かぶ、ガーンジー島という孤島に旅行に来た、アメリカ人の父と子が、
島にいる父の友人の家に逗留しますが、家の裏の丘には怪しげなストーンヘンジがあり、
やがて、村には未だ魔女信仰があることが、次第に明らかになってきて…という内容です。

児童文学ということもあり、十四歳のアメリカ人の子供を主役にした、この小説ですが、
極めてオーセンティックな筋立てながら、堅実な筆力があり、思わず引き込まれます。

ホラー的な部分で主軸になるのは、本当に魔女なんているのか、という常識の壁との溝と、
いるとすれば一体誰が、という疑心暗鬼です。
主人公が信じられるのは、逗留先の一つ下の娘だけで、自分の父も理論で、主人公を説き伏せようとします。
手堅い筆運びで、著者は主人公をじわじわと追い詰めにかかります。

子供を主役にした場合、より周囲からの理解を得るのが難しい為、孤立状態に追い込むのに適していますが、
この小説は、そこに常識感の異なる人間を何人か置いて、現状認識にも揺さぶりをかけてきます。
これは、今更魔女なんてくだらない、という読者の方には、割合効果的な手法だと思います。
そもそも主人公自体が、ずっとそういう常識の壁に、自分の直感を阻まれ続ける訳ですから。
超常現象的な事態はなかなか起きず、見張られている感覚が徐々に強まるような、抑えた筆致が、
児童文学でありながら、なかなかに渋く、これはこれで良いと思います。
また、児童文学らしい、主人公の成長物語の側面も、しっかり描かれていて、
一つ下の娘との交情や、父を越えて自立する瞬間も描かれていて、読後感は風通しの良い感じです。

また、作中には「古アルバート」という、古文書が出てきますが、
ネタバレになるので詳細は書けませんが、この書物の趣向がなかなかに面白いです。
真相が分かった時に、「あ、なるほど、それで作中に、あのアイテムがずっと出ていたんだ」という、
複線のさりげなさも、堅実に効果を上げています。
(読んでない方は、何が何だか、という感じで恐縮ですが)

ぶっちぎりの傑作とは言えませんが、暇潰しで読む程度なら、十分お釣りがくる小説ではあると思います。
最近こんなものを読みました、ということで、こうして挙げさせて戴きました。
渋い!

タニス・リー「パラディスの秘録 死せる者の書」

20070108195529[1] パラディスの秘録 死せる者の書 
 タニス・リー 
 創元推理文庫






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ダークファンタジーの女王こと、タニス・リーが、1988年から93年にかけて発表しました、
全四部の連作集「パラディスの秘録」の、三冊目に当たる短編集です。
「パラディスの秘録」は、現実のパリを下敷きにした架空の都市、パラディスを舞台にしたシリーズで、
この短編集には、パラディスの様々な時代や場所を舞台にした短編が、八篇収録されています。
私は、ファンタジー色の強い作品は、これまであまり手が延びませんでしたが、完全な食わず嫌いでした。
この本を皮切りに、「パラディスの秘録」シリーズは、全て読もうと決めました。

この短編集ですが、各短編の間に、誰とも知れない語り部が、
パラディスにある墓の一つひとつを紹介する短文が、挟まれています。
つまり、ここに出ている作品の全てが、既に死んだ人を描いた作品になっています。まさに、「死せる者の書」です。
各作品はバラエティに富んでいますが、パラディスという都市が、普段私たちが住む現実よりも、
生と死の境が近い(それに怪異も)という、モノトーンを基調にした、ある種の共通の空気感が感じられます。
作品のコンセプトとして、実に秀逸だと思います。

そもそもが四部作でもあり、まだ未読ですが、おそらく他の作品にも、作品ごとに仕掛けがあるのでしょう。
大枠は非常に構造的ですが、実際に小説を読んでまず感じるのは、タニス・リーの類い稀なる、言葉を紡ぐ力です。
こう書くと当たり前で恐縮ですが、小説は単に、物語を語るだけのものではないわけでして、
小説は読み進めるうちに、読者の頭の中に、その世界の肌触りや、登場する人間の感情などが、様々な色合いを帯びて、
どっと流れ込んでくる――そういったところに、読むことの愉しみと妙味があるように、私は思います。
単に物語を語る為に、効率よくお話を伝える文章と、タニス・リーの紡ぐ言葉には、そもそも言語の組成が違うと感じます。
とはいえ、一方では、やっぱり物語を伝えることも必要でして、ある物語を伝えながら、文章の煌めきがまるで衰えない、
そこに、タニス・リーの紡ぐ言葉の強さがあると感じました。
こういうことは、もう他人に真似のできる領域ではないです。
色彩豊かで、淫靡なのに、貧しい女性の素朴さを描かせると実に上手い――文章を目で追うだけで堪能しました。

肝心のお話ですが、これだけ幻視的な文体があれば、いくらでも夢幻的な展開だけで押し切れそうですが、
どの作品にも、一応オチらしきものが付いているのが、おや、と思ったところでした。
「世界の内にて失われ」という、素敵な題名の作品など、まさに幻視のビジョンが作品の大半を占めて、圧巻なのですが、
最後で突然、主人公が巨大な鳥に攫われて宙吊りになる、すごい展開を迎えますが、
何でこんなことに…と思って読んでいると、それがオチに繋がるという、
いや、むしろ鳥に攫われないと、オチが成立しないという、オチの成立に目を剥くような作品もありました。

単純にオチに限って言いますと、タニス・リーより上手い小説家は、幾らでもいると思いますし、
それらは、基本的に手続きが、もっとスマートだと思うのですが、タニス・リーの小説のオチの不可思議さは、
それが展開主導ではなく、ビジョン主導で湧き出たものだから、という気がします。
そして基本的にファンタジー小説ですので、展開による話の繋ぎよりも、イメージの繋がりが優先される為、
イメージの接ぎ木が、作品によっては、例えば鳥に攫われる、というすごい繋ぎに変わるのだと思います。
このような、ある種の強引さも、他の小説では、なかなか味わえない類の感触だと思いますし、
そういったところにも、この小説家の独自性があると思い、私は愉しく読ませて戴きました。
いずれにしましても、オチを云々する小説家ではないですし、まず何よりも、文章を堪能する小説家だと思います。
読みながら、しばし溜息が漏れるような、素敵な読書体験でした。
プロフィール

WORLD BEANS

Author:WORLD BEANS
ホラー小説専門同人誌、
「DAMMED THING」告知用ブログです。
活動状況はほぼ更新せず、大半は読んだホラー小説のことを、ぶつくさ書いてます。
ツイッター
@WorrdBeans

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